2018.09.03

 朝、すぐにでも泣き出しそうな空模様。ゴミ出し。電信柱の下のゴミ置き場に自分のゴミを置き、上からネットをゴミ袋を包むように被せる。その足で知覚のコンビニへ向かう。たまご蒸しパンを二個と低脂肪乳を二本購入し、部屋に戻る。外の冷ややかな空気の中から、風通しの悪い部屋の蒸した空気の中へ戻る。部屋の最も大きい窓は隣の駐車場に面しているため、開けたくない。リモコンを手にして、エアコンのスイッチをオンにする。耳道が痒くなる。雨が降り始めたのを、台所の窓越しから聞こえる音で気づく。

 仏壇の前に正座する。木製の数珠を紫紺色の数珠袋から取り出す。蝋燭に火を灯し、その火で三本の線香を炙る。婆さんと爺さん、親父の分。線香の先に点いた火が消えないので、手を払い、微風を起こして、火を消す。そして香呂にそれを横たえ、お鈴を鳴らす。南無阿弥陀仏……と何回か唱えた。一通りの儀式、いやお勤めを果たして、蝋燭の火をさっきのように手で風を起こして、消す。

 たまご蒸しパンを二つ一気に食べてから、冷蔵庫から水出しほうじ茶が入ったポットを出し、氷を入れた水筒に注ぐ。500ml。ほうじ茶を飲みながらニュースをチェックする。そうして、仕事前の〆としてNHKの朝ドラを見る。また、ドラマ内の時空間が一気に動いた。ワープの多用。

 音楽をかける。

 机の上に、今日中に処理すべきブツを出し、広げる。さて、どの順番で処理していこうか、思案する。考えが絡みあい、ほどけなくなる。大き目の茶道用の茶碗の中に、さっき買ってきた低脂肪乳と多めの三温糖を入れ、むりやり溶かしこみ、そこにこれも水出しで淹れたセイロン紅茶を注ぐ。仕上げにシナモンをふりかけ「なんちゃってチャイ」を完成させる。それを飲みつつ、煙草を飲む。




 パソコンのメールに、無印良品に注文していた赤紫色のゲルボールペンのリフィルなどが近くの受取先に指定したコンヴィニへ配送を完了した旨、連絡が届く。伝票番号と確認番号をスマートフォンにメモする。雨があがったら、取りに行こう。

 昼過ぎ、雨あがるも曇天。

 どうにも眠気が止まらない。仕方ないので、アップジョンを服用して、七十五分程、仮眠をとる。

 二つの仕事を交代で進行する。テキストが組みあがらない。コメントは頭の中に浮かんだ刹那、記憶されず失われていく。そうして逡巡しているところに、別の仕事の依頼物が届く。……ちょっとしたパニック状態に陥る。

 そんな感じの今日は、親父の七回目の命日だ。すまん、親父殿。今の僕には、あなたに線香を手向けることくらいしかできないみたいだ。

2018.09.02

 朝、雨降り。昨日とは打って変わって、涼夏。時間が経つごとに雨脚は弱まり、午後以降曇天。

 午前中は何も考えられず。

 午後、遅い昼食をとろうと食器を扱っていたら、茶碗が手から滑り落ちた。それをきっかけに、付近に重ねてあった他の食器も一斉に崩れた。茶碗二つ、デミタスカップ(ソーサーは無事)、マンハッタナーズのマグカップ一つ、ものの見事に割れる。他のいくつかの什器も欠けるなどした。つくづく整理整頓ができない自分に腹が立つ。こうして、今日も何かを削いでいく。




 こんな境地に至れたらな、と思う。

2018.09.01

 朝、穏やかなれど曇天。昼過ぎから雷雨とのこと。夜、雨降り。

 為すべきことあれど、心進まず。為すべきことあれど、頭の中見通しよからず。為すべきことあれど、身体伴わず。

 人口に膾炙した歌を集めて、スポティファイ上にオールタイムベストを通時的配置にて編む。それぞれの歌に絡みつく記憶の欠片は僕をセンチにさせる。どれだけの選択を誤ってきたことか。何とセンスのないことか。何と薄っぺらい時間の使い方をしたことか。

 最近、映画を生き直している。大学に入り学問として扱うにしたがい、その輝きを失っていった映画を生き直している。しかし、先立つものが続かない。しばらくは立ち止まることを選択させられる。

 ウェブ上で衝動買いしたアディダスの靴二足が午前中、届く。箱から片方を出し足を入れてみる。好ましいサイズ感に安堵する。だが、手に入れた二足のうちの一足の色味が、不俱戴天の仇、読売巨人軍のユニフォームと通底していることに気づき、落胆する。ヴァーチャルな色というのはげに儚きものかとあらためて知る。

 明日の気温は今日より、五度ほど下がるというプッシュ通知が、携帯電話に届く。晩夏、秋などすっ飛ばして、早く冬が来ればいいのに。

2018.08.30-31

 朝、晴れ、蒸す。昼、晴れ、蒸す。夜、風強し。

 僕の故郷、宮城が雨降りで大変なことになっているらしい。日本海側の地方ではないだけまだましなのだろうが、それでも心配にはなる。祖父の代からの墓があるだけで、実家は物理的な意味で跡形もない。それでも心がざわつく。大きな災害を引き起こさなければよいのだが。自然環境の遷移をただただ見聞きするだけなのは、なんとももどかしい。

 いつの間にか、ティーンエイジ・ファンクラブの来日が決まっていた。バンド結成30周年記念のツアーらしい。来年の2月4日、東京。2月5日の名古屋が「Aichi」の表記になっていて、少しだけそこに哀愁を感じた。2月6日の大阪は「Osaka」なのにね。午前中、チケットの抽選に応募する。スタンディング。残念だけど、ダイバーシティの2F席は、呼び屋さんの先行予約の中だけで消費されてしまったらしい。

 半分ダフ屋の某サイトでの売価は、定価の約2倍。手が出ない――情けない大人になったものだ。前回の来日を2Fの指定席で観れたことを思い出して、それに感謝する。しかし、同時に、TFCのライヴが催されたあの六本木にある糞みたいな箱は早く無くなってしまえばいいのにと、呪いもする。

 いつの間にか、オリジナルメンバーのジェラルド・ラヴが脱退していた。ジェラルド・ラヴがいないTFC。彼の不在に思いを及ぼしても、2月にやってくだろうTFCをイメージしてみても、僕の頭の中で像を結ばない。ジェリーがいないTFCが鳴らすジェリーが作った歌をどんなふうに僕は聴くのだろう。それすらも、像を、音像を結ばない。




 偉大なる一般人であるジェラルド・ラヴが、30年間いた場所にいない。他のメンバー(特にノーマン・ブレイク、レイモンド・マッギンリーのオリジナルメンバー)も十分「偉大なる一般人」なのだが。

 脱退の理由。キーワードのひとつが「生活」。ふるっている。

 悲しくはない。いまはただ、喪失感があるだけだ。

thanks a lot for my father

 (記事中の)lowest クラスの環境で、しかも父子家庭でありながらも、東北は宮城くんだりから、東京の私立大、しかも融通の利かない文学部なんぞに進学させてくれた親父に心から感謝を。

 彼が生きている間にお礼を言わなくてはいけなかったのだろう。だが、僕が感謝を伝える機会をうかがっているうちに、彼は逝ってしまった。

 ごめん、親父。まだ、僕は、いまだ、うだつが上がらない厄介者だ。


2018.08.29

 朝、晴れ。午後、曇天。夜、降雨なし。

 夜半過ぎ。仕事をやる気もせず、ぼうっとしながら音楽をとっかえひっかえかけては聞いていた。

 夜中に、ほうじ茶ラテを試しに作って飲んでみる。以外に美味しい。こんなふうに、最近はコーヒーとお茶を水出しで淹れることに凝っている。この地獄のような夏が僕に小さな趣味を一つ授けてくれたらしい……なわけない。




 さっき、麦茶ラテを作って飲んだ。これもまたおいしい。意外だ。僕の想像力など飛び越えてくれる。今度は煎茶もラテにしてみようか、などと妄想を膨らませる。

 僕は仕事中に音楽をシャッフルで鳴らすか、あるいはラジオを流すのだが、今日は朝からやけにこの歌を聞く。"Rock The Casbah"、いま三回目が鳴っている。




 いったい、なぜに。昨晩DVDで、中途半端にザ・クラッシュのアンソロジーを観たからか。

 月に一度の通院。しかし、診察が一時間半押しで受診できず。

 夜、埼玉の北にて痛飲する。

2018.08.23-28

 なんだかんだで日常の記しをつけられなかった。とはいえ、特記事項は何もなかった。ただ生きて、ただ時間を過ごして。

 在宅仕事が大量にある。自分に甘い性質から、自分の部屋の中では仕事が進まない。手を付けられない場合もある。

 何か良い薬はないものか。こういった精神的な問題の場合は本人の自覚が芽生えない限り治らんものとは思うのだが、いかんせん、僕にそんな矜持は、とどのつまり、ない。

 プリンターの調子が芳しくない。Canon製のMF4270という機種なのだが、それも中古で購入してから約十年。そろそろ限界が来てもおかしくはない。ここで悩ましいのは、次のプリンターを、これまで通りレーザー式にするか、はたまた、カラー書類を打ち出せるインクジェット式にするか、ということだ。やはり仕事用のプリンターはレーザー、写真プリントなど色付きの用途のためにインクジェット、といった感じで二種類そろえておいた方が無難なのかもしれない。




 カメラは三台、いつもスタンバイしているのだが、いかんせん僕が撮るべきものやことがあまりないので、使ってやれない。カメラはちょっとばかり切なくなっているのではないかと一瞬、思う。だが、それは意味のないレトリックを弄して自分の意識づけにしているのに過ぎないのも、一面、分かっている。

why?

 クラークスのサイズ感はいつ変わったのだろうか? なぜ表記サイズより大きめ感が強くなったのだろうか? マーケティングの結果により変えたのだろうか。

 でも、なぜ? サイズを選ぶときの難度が高くなったのだ、個人的に。

 う~む。

2018.08.18-19

 天気晴朗なれど風強し。

 水出しで淹れた玄米茶は存外に美味しい。水出しでも炒った玄米の風味は残るものなのだなと、僕の中の古びた認識を少しばかり更新する。

 一枚処理しても、また一枚増えているような錯覚に陥る。未来永劫これが続くのではないかと、一瞬ぞっとする。ただただこれをこなしていく作業を続けることだけが出口へ向かう適切な身振りであったのを思い出す。

 着替える。そして、気分転換に部屋の外に出る。東京の端っこであるこの場所は、何やら涼しい。湿り気の少ない風を身体に受けるのは、いつ以来のことか。そう思うのは、それだけ暑さに連戦連敗したことの証だろうか。

 でも、また、きっと、暑くなるのだろう。今年の夏がこれで矛を収めるとは、とてもとても、そう思えない。




 部屋がある建物の向かいのセヴン・イレヴンで買ったアイスを食す。新しいフレーヴァ―だ。とりたてて美味しいとは思えないが、不味くもない。冷えた玄米茶を飲む。モダス・コンパクトの座面にあぐらをかいて、腰のあたりを背もたれのランバーサポートに少しつける。この椅子は座面が本革だから、座っていて快適だとはとても言えないのだが、これを手放せば二度と手に入らないのも分かっている。一輪のキャスターが疲労で壊れたが、僕はまだまだこの椅子に助けてもらうつもりだ。

 机に向かう。大分前に、一度下がってしまった作業効率は、なかなか上がってくれない。ここらですこし寝よう。

 一時間半後、起床す。しかし気持ちが仕事に向かない。ホント、使えない奴だ。自分は。

2018.08.15-17

 前の仕事で心を使い過ぎたような気がする。どうもこの三日間は、次の仕事にとりかかろうとしているのだが、実際の行動にうまくつながっていかない。われながら、ずいぶんと、打たれ弱くなったものだと、あらためて思い知る。

 この眼の前にうずたかく積み上げられている紙の山、その中身を一枚々々読み様々な指摘を書いていくのだが、なかなかに心が削り取られていく作業なのだ、これは。

 水曜日にドラッグストアに赴き、玄米茶とほうじ茶、そして麦茶を買ってきた。いずれも〈水入れ茶〉として飲みたいと思っていたお茶だ。これで我が家には煎茶に玄米茶、ほうじ茶に麦茶と、紅茶をのぞく一通りの水出し用の茶葉が、当面の分、そろったようだ。最近ははをすこしばかりコーヒーに飽いたので、しばらくお茶を飲んでみようかなと思っている。


2018.08.14

 いましがた、応募していた〇〇からメールが届いた。不採用とのこと――笑わば笑え、このダメっぷりを。

 ダウナー。だけど、聞こえてくる歌だけは、ちょっとポジティヴであってほしい。


sport?

 いいこともあれば、わるいこともある。「だからこれからは未来世代のためにここはこうしよう」――そうやってほぼほぼ全ての世界はバランスをとってきたはずだし、そしてこれからもそうして世界のあり方は日々変容していくだろう。

 僕は今年も、なんだかんだといって「夏の全国高等学校野球選手権大会」の放送を、仕事の合間をみつけてはチラ見している。

 監督「いけるか」。
 選手「いけます」「いきます」「いかせてください」。

 この種の趣旨の発言が、試合後のインタヴューから聞こえてくる。それはもう年中行事だ。しかし、これは監督(大人)という社会的立場を濫用したパワハラの一形態に過ぎないのではないか。

 そうした中で選手が「甲子園出場が最終的な目標」だと意志しようものなら、その後に続いていく人生のグランドデザインの構築は困難を極める。つまり、燃え尽きてしまった人は思考停止状態になる。

 「青少年の健全な育成」という胡散臭いお題目は、高校野球においては身体の精神の破壊へつながる青少年へのパワハラの源泉だ。それに内輪の誰かが気づけないかな? 特に高校野球関係者は慣習的な精神論の行使に代表される主観的人間ばかりなのか?

 最新のスポーツ科学の知見は、高校スポーツにほぼ反映していない。高校スポーツの世界観は「スポーツ」の原義を見失わせている。制度疲労を起こしている従来からの「精神論」は跳梁跋扈するのみ……。

 学校スポーツの世界ではいまだ、指導者が「白だ」だといえば、選手の応答も「はい、白です」となる関係性が幅をきかせている。ほとんどの選手が自己犠牲によるカタルシスを得てそれがさも最終目的地に到着したかのような感覚に子どもを陥らせてしまう学校スポーツの現状のあり方は、昔から疑問を抱かせ考えさせることを僕に強要してきた。

 いまも、そうだ。

2018.08.12-13

 どうにもこうにも終わりという時の位置が見えてこない。これは仕事の無間地獄の只中にいるということなのか。

 気分転換に日記を書く。

 一週間ほど前に「水出しコーヒー」を淹れようと思い立ち、道具を揃えた。揃えたといってもコーヒー豆とハリオ製の水出しコーヒー用のストレーナーが付いたガラスポットのふたつなのだが。そうしてコーヒーを水で淹れてみる。それを飲む。夏が大嫌いな僕には、それはそれで、いくばくかの涼を感じられた。

 昨日、こんどは、「水出し茶」用のポットを手に入れた。これもハリオ製だ。ついでにアマゾンで1kg600円ほどの業務用の緑茶の茶葉も仕入れた。

 僕は味音痴だ。だから、水出しコーヒーがどうの水出し茶がこうのと語れない。どうにももどかしい。ただ、コーヒーとお茶のおかげで、毎年、夏は忙しいな、盆に墓参りへ行けないな、ご先祖のみなさんごめんなさい、というそんな季節を少し冷めた頭で捉えられたような気がする。




 さっきからしばらく雷の音がしているが、まだ雨は落ちてきていない。降りはじめたら、今日はどれだけ降るのだろうか。少し汗ばむ。寝室で稼働しているエアコンが放つ冷気は、いまいる仕事部屋に流れ込んでくる。脂の浮いた鼻先から仕事用のリーディンググラスがゆっくりとズレ落ちる。

 椅子の話。十年弱使って(座って)きた椅子のキャスター部が経年劣化で壊れたのは前述した。そこで、仕事の合間に、この椅子の修理についてメーカーへ問い合わせた。そのやりとりの内容を要約すれば、キャスター部の部品を購入すると、発送してくれるということだった。……本当なのか。

 ウェブ上で情報を収集してみた。なるほど、何人かのブロガーが「キャスター交換」について記事に起こしていた。おおむね、その話の内容にズレはない。どうやら、この椅子は部品さえ交換すれば、まだまだ使用できるのが分かった。座ってよし、胡坐をかいてもよし、そしてリクライニング状態で頭を空にするのもよし。モノでありながら、ほぼほぼ同志の関係なのだ。




 愛着のあるモノを長く使い続けられるシステムがあった。僕はそれをとても好ましいと感じる。部品が剥がれ落ちたとはいっても、特に使えなくなるということもない。だましだまし使いながら、次の椅子をどれにするか悩みつつ見繕っていたのだが、それも杞憂に終わりそうだ。

〔つづく〕

2018.08.10-11

 仕事部屋にしている四畳半の部屋の畳の上に、なにやら何かが粉砕したような灰色の欠片がパラパラと落ちていた。いくつかその欠片をひろい上げゴミ袋に放り込んだ。そこではたと気づいた。椅子の脚に付いているキャスターを覗きこんだ。

 気づきは当たっていた。五つあるキャスターのうちの一つが破砕し、プラスティック片が散らばっていたのだ。経年劣化は致し方ないとはいえ、長年の相棒も疲労と老化をきたしていた。オークションで中古のこの椅子を手に入れたのが約十年前だったろうか。少なくとも、かれこれ十五年は働いてきた計算になる。

 かといって新しい椅子を導入できる資力はない。心の奥では、長く使っているこの椅子と同じメーカーの椅子にとても興味深い一品があるので、それを調達したいという思いが渦巻いてはいるが……。形あるもの必ず壊れる、のだから。そう考えていたら、昔、引っ越しをするため余剰となった椅子を業者に二束三文で買いたたかれたことを思い出した。ウィルクハーンのピクト。曲線が美しい椅子だった。そのときは泣く泣く売った。二束三文の金と引き換えに。

 今夜は仙台がアウェーでの試合をものにした。近くに住んでいながら諸々の事情で観戦できなかった。しかし仙台が勝ったことで、椅子の一件ぐらいで落ち込んでばかりもいられないな、と。


 ―― チェアとソファじゃ大分違うが。

 イニエスタがゴールを決めたというので、見てみたら……すごい。パスの出し手のポドルスキも。子どもたちへのよいお手本になった。一瞬、Jリーグが違うリーグになったかと思えた。……神戸というクラブ、あまり好きではないのだが。


 「ピクト」の画像をウェブ上からピックアップしてきた、というか、ショップリフター。僕はただ単に自慢したがり屋なのだ。肘掛け部分は木製で、その意匠と造作がとてもいい。座り心地は仕事向きではなかったが、この椅子に座るたび、何かホッとしたのをいまも記憶している。(仕事は不出来なくせに、道具だけはいっちょまえ)


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2018.08.09

 台風一過、晴天。

 未明過ぎ、台風からの影響がピークだった頃、溜まった世事を少しでも片付けるために、床から起き出して机に向かう。はかどらないが、それをいつものことと意味づけてしまう自分に幻滅する。

 台風の夜は上滑りしたまま、止まらない。

 この台風が抜けたら少しは秋へと向かっていくのかなと、あり得ぬ妄想をした自分にダメ出しをする。何をもってそんなことを思うのか。分からない。




 フィッシュマンズのリマスター版、『BLUE SUMMER~Selected Tracks 1991-1995~ (Remastered)』が出た。手持ちの金の余裕がないので、Spotifyで聴く。


 フィッシュマンズのオリジナル・アルバムは盤ごとに音圧がバラバラで、音像の統一感がなかった。彼らはそれを狙っていたのだろう。今回のリマスター版の発表により、統一感のある音圧でこの頃のフィッシュマンスの代表曲を聴けるようになった。こうして聴いてみると、この一枚は当時出たオリジナル・アルバムではないか、と思ってしまった。このリマスター版は必聴だ。金がないのがつくづく、惜しい。

 つい先だって手に入れたJBL GO2のエージングが進んだ。音像にまとまりがでてきた。いまはこの「おもちゃ」が奏でる1980年代のラジカセ的な音が心地よい。