in the light

 やらなければならない仕事から逃避して、船着場のベンチに座る。
 太陽が真正面にいる。眼の中に射し込む光が網膜の表面で散乱して放射線状にその白さを散らせる。
 埃のような白い虫が舞い踊る。季節外れの陽気に羽化したのだろうか。空中で細かく、軽やかにステップを踏んでいる。何の目的もなく絡み合っているように見える。その姿が逆光の中、照らされて浮かびあがっている。
 手をつないで歩いていくふたり。昨日百回目撃した黒いジャケットを羽織った男とハンティング帽を被った長い髪の女。申し合わせたように、男の背の方が高く、女の頭の先は男の肩ぐらいにとどまっている。
 手に小さな蟻が這っているのに気づく。細やかな足取りでゆっくりと袖を上がっていく。眺める。足下に眼を転じると、幾匹もの小さな蟻が動き回っている。その一匹一匹がざらついたタイルの上に身体の大きさに比例した小さな影を落としている。今日の僕は彼女、彼らを何匹踏み殺したのだろうか、と思う。
 休憩に来たタクシー運転手の顔と髪と肩には退けようのない疲労が積もった埃のようにこびりついている。その埃は息を吹きかけただけでは払えそうもない。
 後ろに生えている木の枝葉の奥から小鳥のさえずりが聞こえる。だが、姿は見えない。もっぱら空想の中でその姿を追う。
 買い物帰りだろうか、自転車の前籠にネギを載せ、小さな茶色の犬を道行きに老女がゆらりと目の前をすぎていく。
 サングラスをかけた若い車椅子の男が、坂を利用して猛スピードで走り抜けていく。頭に巻いたバンダナの端が忙しく揺らめく。黒い車椅子はレースカーのようだ。
 一台の青いベビーカーが一組の夫婦の女の方に押されていく。乗るはずの娘は遊び疲れて眠っているのだろうか、首をだらりとさせて男の腕の中に抱かれている。ベビーカーを押しながら女の視線は娘を捉えている。その表情には険がない。
 一匹の鳩が首を揺らせながら寄ってくる。僕にやる餌がないことを知ると、くるりと踵を返して広場の中央に向って歩き始める。
 年季の入った煉瓦製の花壇に腰をおろしながら女がコンビニで買った弁当をひろげる。箸を割り、ゆっくりと中身を口へ運ぶ。途中、携帯で話をしている。その後、待ち合わせていたのだろう、その女のもとにふたりの女が合流する。
 首輪に汗を光らせて、後頭部の禿上がった男が走っていく。
 ここにあるすべてが光の中に照らされて浮かび上がっている。
 そんな風景のなか、何もせず、通り過ぎていく、気づけない時間を見つめる。誰よりも贅沢な時間を過ごす。目の前を通り過ぎる男連れのもつ誰ぞのどこぞのバッグよりも、主人に媚びを売る浅ましい犬を連れて散歩するふたりよりも、僕のこの時間は贅沢だ。
 太陽が傾いて、正面にある建物の影に隠れた。それで時の流れを知る。この時の流れの中ですべてが生起しては消えていく。そしてすべてが調和している。誰が悲しみ泣こうと、楽しくて笑おうと、幸せであろうと、不幸であろうと、勝敗がつこうと、零れ落ちようと、不条理があろうと、すべてはこの時の流れの中、総量として調和しているように感じる。
 公平な姿は、実のところ、いびつで醜いものだ。不公平であることがこの世界の調和なのだと、あらためて、知る。
 陽が落ちかけて、正面に建っている古惚けた外壁をもつマンションが僕の座っているベンチの辺りに影を作る。この季節相応の冷ややかな空気が戻ってきたのを感じる。
 両隣のベンチに座るメンバーが変わっている。いつの間にか、女と男が弁当をひろげている。
 一匹の虻が顔の前を、ぶん、という羽音をたてて一瞬で通り過ぎる。
 部屋へ帰る合図だ。