les moineaux

 不動産屋へ行く。現在住んでいる部屋の、三度目の更新だ。
 一ヶ月ほど、僕は時期を間違えていた。当然、金の用意をしていなかった。連絡が来て、そこで、気がついた。

 八方手を尽くし、なんとか金を用意して、自転車に乗り不動産屋へと向う。
 目黒銀座から山手通りへ出て、大鳥神社方面へと自転車を漕ぐ。いつもより少し速めに、景色が後ろへ飛んでいく。
 少し肌寒い。マフラーをしてきて良かったなと思う。ついこの間、押入れの奥から引っ張り出したばかりのマフラーだ。
 目黒通りとぶつかったら、右折して坂を登る。自転車のギアを四速に入れる。金色の街路樹と新旧の家具屋が立ち並ぶ通りをしばらく行って、細い道を右折する。お婆さんが飛び出してくる。一瞬だけ心臓が止まったような気がする。
 約束の時間は、一時四十五分だ。一時半。少しだけ時間がある。
 山の斜面に作られた小さな公園で缶コーヒーを飲み、煙草を一本吸ってから不動産屋へ向うことにする。
 上下二段構造になっている下の方では、アヴェクがブランコに揺られながらとりとめもない話をしている。近くに住んでいることはその服装から窺える。
 ムクドリだろうか。形の定まらない集団飛行をしながら右往左往する。合わせて、ムクドリのけたたましい鳴き声は右の耳から左の耳へとその音像の位相をせわしなく移す。僕はその様子をただ眺める。
 向う。
「あったかいの?つめたいの?コーヒー」
 不動産屋の中年の男と世間話をしながら、新しい契約書に目を通す。
「いま、何人で住んでんの?ふたり?」
「あぁ、いや、ひとりです」
「あれ、ふたりじゃなかったっけ?」
「ええ、ちょっと」
「ありゃ、別れちゃったんだ」
「まぁ」
 気まずい雰囲気になるどころか、男はますます調子に乗っていく。
「あれ?前は違う女の子と住んでいたよね?」
「ええ」
「ありゃぁ、またダメになったんだ」
「はぁ。僕が悪いんですよ」
「なるほどねぇ」
 また、は余計だと思う。
 小さな不動産屋のカウンターで、部屋で起きた昔のことが頭の中に像として一瞬にして浮かび上がる。
 そう、すべて僕が悪かったんだ。誰も何も悪くない。本当のことを言ったまでだ。だけど、浮かび上がった像が僕の胸の中にどうにもならないわだかまりとして沈殿していく。重い。
「最近さ、新しい人、いっぱい引っ越してきたでしょ」
「あぁ、そういえばそうですね」
「あそこはいいところだからねぇ。おたくだけだよ、今、この家賃で貸しているのは。他の人より三万安いんだから」
「え?」
「今ねぇ、空き部屋が出てもすぐ埋まっちゃうんだよ。だからね、大家もうるさくってねぇ…。家賃上げろ上げろってさぁ」
「そうなんですか」
「そうだよ。敷金礼金だって今は四ヶ月分とっているんだから」
「へぇ」
 そうか。出て行けってことか。確かにこの辺の相場からすればかなり安い家賃であることはわかっている。リフォームをして、新しい家賃で貸し出したい大家の気持ちは理解できる。もし自分が大家の立場ならそう思うのは当然のことだ。部屋に越してきた六年前と大分状況が変わってしまったようだ。
 大丈夫だよ、心配しなくても。そろそろ出て行くさ。沢山稼いでおくれよ。
 もう何も持っていないよ。もうすぐ、この程度の家賃さえ払えなくなるだろうことぐらいわかっている。
「判子、借りるね」
「あ、はい」
 僕は印鑑を水色のバッグから取り出し、男に差し出す。男は黒い印鑑の先を朱肉にさらし上下を確認しながら、契約書の所定の位置に押し付けていく。
 印鑑が上下するたび、僕はゼロになっていく感じではなく、ゼロからマイナスへ落ちていく感じがする。ほんの少しだけ、そこには恐怖が纏わりついている。じわりと全身に広がっていく。
 男の生活を支えている小さな儀式が終って、完成した契約書をもらう。二つに折り、水色のバッグにしまいこむ。お決まりの挨拶を交わして、僕はマフラーを巻き直す。
 不動産屋を出て入り口に止めておいた自転車の鍵を外す。帰り道に出る。道に出るとき、黒いBMWとぶつかりそうになる。
 目黒通りに出る。帰りは下り坂だ。スピードを上げる。顔にあたる風が肌をひんやりとさせる。
 家具屋の若いスタッフが歩道の脇で入荷した商品の荷解きをしている。その皮製のブラウンのソファを見て、一瞬、食指が動く。
 顔に当たる風の冷ややかさが僕に冷静さを取り戻させてくれそうだったその瞬間、足に掛かるはずの抵抗がなくなり、からり、と音がする。自転車のチェーンが外れる。最近、二回乗ると一度は、外れる。
 道端にある、街路樹と歩道の境を別けるために張られたパイプに腰掛けて、チェーンを元の位置に戻す。あるべき位置に戻していく。鉄の輪の連なりを凹凸に絡めていく。
 もう、この作業には慣れている。指先に黒いオイルをまぶしながら、淡々と作業を進める。ぬめりとした黒い色を足下に落ちていた落ち葉で拭う。だが、拭いきれない。
 オイルがつかないように気を遣いながら、バッグから先程の契約書が入った封筒を取り出す。そして、その封筒の表面に、中途半端に黒色が滲んだ指先をなすりつけ、拭う。「契約書在中」と表に印刷されている封筒が拭うたびにくすんでいく。
 再び、自転車に跨り、地面を蹴る。走り出す。緩みがちなチェーンの具合に気を配りながら、スピードを上げていく。山手通りに出る。左折する。清掃工場の巨大な白い煙突を右手に見ながら、もと来た道を走っていく。
 途中、船着場に寄り、ぼうっとする。本を読もうとしたが、文字を追うことができない。ただ古本の匂いと指先にこびりついたオイルの匂いが鼻をつく。
 ベンチの後ろの色づきが進んだ植木の中から、がさがさと音がする。猫かと思って覗きこめば、雀たちが細やかな枝の隙間、木漏れ日の中を跳ね回っている。毛繕いをしている。その姿がとても好ましいものに感じる。そんな光景を眼の前にして微笑みながらも、なぜか、鼻の奥が、つん、とする。
 通りの方からテレヴィの撮影クルーの一団が大声を上げながら近づいてくる。雀たちは反応して、茂みの中から一斉に飛び出していく。狭い空に小さな身体が散らばっていく。
 何も考えられなくなっていた。