2022/02/25 : firstdraft ——ウクライナ、キエフ

昨日のことの発端から、ずっと生中継の画面を見ている。
いま、ここに少しずつ書いて、不特定多数の人間がアクセス可能なこのときの思考の記録を残しておきたい。

18:29、ウクライナの首都キエフからの生中継の画面の中で、
UKのメディアであるskyのアンカーが、同胞の議員とのやり取りをしていた。
突然に中断して、議員の某氏へアンカーの某氏が叫んだ。
画面は下院議員を映し出しているが、音声はキエフの街中に喧しく鳴り響く非常を知らせるサイレンの音で占められていた。

――「これがプーチンによる戦争犯罪じゃないなら、いったい何なのだ!」

それを民主主義に対する挑戦だと捉えているかのような彼にとっては、どうしても許せない表情だった。
どうにも許しがたい感情。
それを僕は理解することができない。
なぜなら、民主主義は独立した意見をもつ個人を社会的につないで物事を決定するために発明されたヨーロッパの発明品だ。
だが、僕の中の「民主主義」は、集団的合意のあいまいさを是とする社会内における彼の地から無理やり受け容れた身振りにすぎないからだ。
つまり、僕は「みんな」との合意を通してのみ個人として実在可能になる存在なのだ。
向こうの民主主義とこちらの「民主主義」がもつイデオロギーのヴェクトルの向きは逆方向であり、そうしたプロセスで実現されるものだとも言える。

では、それは生命を賭けて護るべきものだろうか?
僕の中の答えは、「そう」。
だって、この段階を乗り越えないと自分の血肉にはならないからだ。
いま、東ヨーロッパからウクライナとロシアの間に起きている事象を伝えている西ヨーロッパの人間にとって、そのことは自明の理なのだろう。

それを積極的に肯定も否定もするものでもない心境にある僕は、
どうも覚悟が足りないのか、あるいは、人間として単純に老化が進行してしまったのだろう。
ほとほと気づきが遅すぎる人間が僕である。

画面は通りを横切る兵士たちの小集団を映し出している。
兵士たちのほぼ半数は、女性だ。
セクハラではなく、人間としてのウクライナ人(フン族の大移動を契機にいったん散り散りになった民族を指して)の、手許から消え失せようとしている独立と民主主義に対する心のあり方なのだなと、ただただ思う。
そして、彼らゲリラと呼ばれる兵士たちの幾人かは、この世界から退場している。
言い換えれば僕は、この画面上に映し出されている誰かの最期を見ているのだろう。

今日のニュースに「カナダ研究者が「走馬灯」のような脳波の動きを確認」という情報が流れた。

〈脳への血流が止まるまでの5分間から脳の活動が完全に停止するまでの5分間は、脳内に蓄積された記憶の中からポジティヴな内容を持つ記憶を高速でサーチして、「死」に対する精神的苦痛を軽減しているとみられる〉

――兵士が死ぬとき、そういった時間を担保できたその兵士は、幸福者だろう。
たいがいは、頸部、頭部、胸部などの即死に至る確率が高い身体上の箇所を、狙撃兵は狙うのだから。
僕の想いの中では、その死に方と意識の消滅の仕方の双方を肯定する。

日本人と銃との間には銃を入手できる道はその幅が狭く、ほとんど欲するモノに手を伸ばしても届かない。
現今の社会状況下において、心身が疲弊しきってしまったと思しき結構な数にのぼるだろう日本人は、銃を用いて頭か心臓を打ち抜いて、可能な限り痛まずに、苦しまずに、短時間のうちに己の生命のくそったれな営みに終止符をうちたいのだと。
それが、この瞬間の社会において存外に巨大なコンセンサスとなりつつあるのではと感じる。
でも、その方法で退場できるのは、相当に運のよい人間に限定される。
ならば、次に時間経過的に「苦痛が一瞬で消える「はず」の疾走する電車に飛び込む方法」を採用し、これら事象の発生は増加し続けることになる。
もし、この増加傾向を減少傾向へと乗り越えようとするのならば、自殺用短銃(弾丸は基本2発つき)の無制限輸入、あるいは、その生産と販売(配給)の実施となる。
他者の行動について理解するのを拒否したい「2割」の日本人——こういった死に方を選んだ人間に対して「迷惑」だと思い、そのまま感情にまかせて口にしてしまう類の人間——からすれば違和感以外の何ものでもない話だが。
継続的に起きている「人身事故」は、銃により苦しみを最短化する自死の方法を禁じられていることから、その代替方法を選択する人間が多く存在していることを可視化しているに過ぎない。
言い換えれば、その代替方法を能動的に選択することは、希望や展望、肯定すべきモノやコト、存在の消失に支配されてしまった日本人(日本社会に参加している人)の数を示しているのだ
そう考えると、ウクライナの地で死に行く名も知られないだろう兵士と現在の社会で死を選択するかもしれない日本人は、さほど離れた距離に位置してはいないと言える。

追記

20:42、ロシアのラブロフ外相の記者会見とイングランド国会でのウクライナ担当の議員の答弁の対比がね……。
以下、意訳の上、抜粋。
――ラブロフ「……ウクライナウクライナのために公用語ウクライナ語に統一するのは、許せん」
「だから、ロシアはウクライナにおける(ロシア系の人間のために)ロシア語の使用を許可し、多様性を守ったのだ」

――英議員「我々が紛争に実際に加担しても、ロシア軍にキエフを占領される可能性は排除できなかった」
「よって、ウクライナを実力行使で援助することをしなかった」

いやいや、政治と経済は人命に勝ると再確認させていただきました。
そして、人間の生命の数え方を再認識させてもいただきました。
つまり、人間の生命の数的単位は社会的役割と地位で決定されるということだ。

「政治家と資本家の生命の数の数え方は一個人単位とする」――固有名詞をまとう死
「それ以外の一般市民と軍隊の下士官と一般兵士の生命の数え方は集団単位とする」——不特定の、塊の一部としての死

もっと単純に、空想や妄想の類の陰謀論として楽に考えてみる。
ユダヤウクライナ人であるゼレンスキーをダシにして、ウクライナ以東と以西の両商圏を現状の政治的不安定さから確実なものにしたかった世界中に散らばるユダヤ系「商人」たちによる「遠謀」なのかもしれない。
それならば、大統領選挙当選後に第二言語であるウクライナ語を猛特訓し(第一言語はロシア語)、今日まで「ウクライナのためだけの大統領」として振舞い続けてきた、インテリであり映像制作に精通した演技派コメディアン「ヴラッド・ゼレンスキー」の面目躍如である。
例えば、スーツ姿から軍用のTシャツ、そして軍用セーターへ着替えて国民と国際社会へメッセージを送る彼の姿は、まさに彼の本質の一端を示している。
身に付けている衣服という記号とその変化だけを取り出しても、置かれている状況を説明するのに十分だ。
それだけでも、高い説得力と訴求力を備えている。
――「援けを乞うている我々ウクライナを助ける行動をとらなかった西ヨーロッパの人間に失望した」
まさに陰謀論として、現時点では成立してしまうような物語にも読めてしまうが、果たして。

世界史の教科書を通して学んだことは繰り返すのだな。
古のモンゴル系(フン族)民族を現代の中華民族に置き換えてみれば、実力行使が政治・地政・経済的な側面から「精神的」かつ「意識的」にロシアを支えているのが彼らだ。
しかも、ウクライナNATO加盟が承認されれば、東ヨーロッパ地域における彼らの「一路一帯」は挫折、大きな政策転換をせざるを得ない。
したがって次は、その同じ構造上でそれぞれの役割分担を入れ替え、第二幕を始めようとするのではないか。
……それは単に僕の妄想上で展開できる程度の、穿った見方(ほぼ陰謀論)に過ぎないのだけれど。
明らかな事柄のひとつは、従来の地政学的力学は変更されつつあり、地球に住まう人々がCOVID-19以前の世界や生活に戻ることの不可能性がまた再び顕になったということだ。