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 今している仕事は午後過ぎに終ってしまう。お客様からの質問や進路相談、人生相談などに応じてからホテルに戻っても、夕方5時を少し越えるくらいの時刻である。

 だから『ハゲタカ』再放送を見ることができる。

 僕は、NHKのドラマはできる限りチェックするようにしている。
『ハゲタカ』に関しては、最終回を除いてシリーズのほとんど見たのだが、出張先でもこのドラマの再放送はどうしても見てしまう。大変良くできているテレヴィ・ドラマである。民放のそれとは比較にならない。
 2回目だが、面白く見れる。
 原作は予備知識がなければ楽しめないものだが、テレヴィ・ドラマは映像を通して、その面白さを共有できる可能性が高いものになっている。映像という一般性の強い記号が持つ特性を生かしている。NHKのドラマにおいても最近では出色な成功例である。テレヴィ・ドラマ一般は「映像」に頼りすぎるきらいがある。
 デクパージュ、キャスティング、ダイレクション、映像作品を製作する際の基本的側面において、鑑賞に堪えうるレヴェルを保っている。近年のテレヴィという媒体が置かれている状況において、こういった〈作品〉と呼べるものを創出したことに、ただただ頭を垂れる。しかし、NHKだからこそ、ともいうべきなのだろうか。それとも、民放はそれをあきらめて、映像言語においても特定の顧客層を摑むためのドラマを作っているのだろうか。マーケティングの結果として。しかし、それは当然のことである。利潤を追求しなければ彼等は存在価値を社会的に否定されてしまうのだから。
 このような作品を制作してこそ、視聴料を払っている価値があるというものだ。反対にに民放は収益構造が異なるから、占有率の割合を大きく獲得することを目的として作品を制作しなければならない事情がある。それは利潤を追求することが至上命題である民放では当然の行為である。

 つまらん批評だ。

 ホテルで過ごすのは好きだが、眠れないのは困りものである。睡眠薬が2倍の量になってしまう。

 同業者がお客様と一緒にホテルの自室に入るところを見た。というか、僕はその真後ろから自分の部屋へと戻っていたので、自然と見る形になった。同業者が僕の存在に気づいていたかどうかはさておき、そのお客様の方はその仕草や言動から、僕の存在に気づいていたようだ。小声で「○○いるよ」という声が僕の耳に届いた。
 地方で仕事をすると、どうしても箍が緩んでしまう同業者の気持ちは理解できないでもない。だが反面、そのことに感知しようとも思わない。その部分は個人の自由である。批評するつもりもない。自己責任である。なぜなら、僕にとっては仕事場の外で起きる人間関係に関する事象に関しては、どうでも良いことだと思うからだ。しかし、このことを反倫理的な立場にたって考えれば、僕の仕事はその同業者と比較して、同じ職種ではないから単純に比較はできないが、お客様をひきつける魅力に欠けるということを意味している。言い換えれば、その同業者は大変魅力ある仕事をしているということである。
 「自分の仕事はそこまでレヴェルが低いのか」と思ってしまう。確かにその同業者は僕が採用されなかった所でも仕事をしている。それが何よりの証拠である。その時点で僕にはその同業者に対して何も言う権利がない。つまり、才能の差、そして、僕は低能であるというととを意味しているから、僕はこの事象に関して何をも感じても、思っても、考えてもいけないのである。

 僕は「プロフェッショナルは自己の行動を抑制しなければならない」と思っている。以前書いたことと違うが、それはプロだけどアマチュアの性質も持っていないと進歩しないよ、という意味で書いたので矛盾はない。格好をつけるわけではない。皮肉でも何でもない。僕はそう思うのである。しかし、その同業者の行動と自己の行動を別な側面からから考えると、どんな行動をとろうと双方の働き場を比較して考えれば、やはり僕はこの業界にいてはいけない人間なのではないか、お客様に迷惑を掛けているのではないかと思わざるをえない。アマチュアである。そして、僕も同様に揺れ動くときがある。情けない限りである。

 この業界以外に自分の居場所があるだろうか。何も考えつかない。自分では分からない。僕に近しい人たちへ。もしそんなものがあったら、居場所があるのならば、ひとことで良い。耳打ちしていただけると、本当にありがたい。
 そんな場所はないと、自分では思っている。また「そんなものは自分で探せっ! ボケッ!」と言われるのがオチであることも想像できる。

 だけど、分からない。弱っている。

 マッチで点ける煙草は、なぜ美味いのだろう。その理由にあるのが、存在に関する答えと同じだと思う。同じ炎でも、人に訴えかける〈何か〉がなければ、存在価値なぞ無きに等しいのである。

 僕の仕事には〈燐〉がない。CDで非可聴域がカットされているのと同じである。したがって、自分にはそのつもりがなくとも、お客様には「もの足りなさ」が残ってしまうのある。低能さ、知識の不足とともに、他者を惹きつけるような人間的価値、魅力という〈燐〉が欠けているのある。単なるガスの「火」、あるいはその形象と同様である。〈炎〉となり得ていない、何かが足り得ていないということだ。実際に自分の存在や仕事は、熱さもぬくもりも実質的内容もなく、「見た目」だけである。基礎部分は非常に脆く、仕事への想いなぞ同業他者(他社、ではない)と比較して無いに等しく、しかもその微々たる想いさえもお客様へ伝わっていない。

 はてさて、情けなや。

 無能さへの単なる言い訳、である。つまらん自己否定、だ。
 こういうことを書く自分の存在が気持ち悪い。
 「じゃ、書くなよ」
 ごもっとも。
 「曝すなよ」
 ごもっともです。
 芥川のように入水するほどのレヴェルの悩みも度胸もない。
 その程度の無能な人間には、死んだように生きるしか手立てはない。