仕事から逃避した。小さな小さな音楽論を、その勢いに任せてちょっと書いてみた。

 現代日本における多くの人々の音楽の聴き方は、特にライトユーザーを主体として、音楽配信会社からストリーミング配信される音楽を聴くのがメインスタイルになった。もう、その姿はそこかしこで見られ、そういった音楽との付き合い方が主流になったのか、という錯覚に陥るほどである。実際には比較的すぐに、物理的な所産であるレコードやCDなどは、すでに影響を被り年々プレス数を減少させているが、さらにまた「もうひとつの落とし穴」ごとき生産量と販売額の暴落が展開されるであろう。

 たしかに、最近はアナログやカセットテープのリヴァイヴァルムーブメントに少し火が付き、そのような状況を報道していたニュースで現状を知ってやろう、と思ったが、無理であった。辛うじて僕の耳に残っているフレーズは、二十年から三十年前の色んな、そして多彩な個性の集まりだった人たちがレコーディングした、テレヴィの貧弱なスピーカーから流れてきた〈必殺のフレーズ〉であった。

 別の角度から観察してみると、週末問わず、ほぼ毎日、この東京のどこかの箱で、その頃の音楽が流されつづけ、踊り続けている人々がいる(生息している)(生き延びている)。健全である。もう、あるステレオパターンにパッケージングされた音楽には何の興味もそそられない(もたない? もてない?)人々が、己の身体が最も気持ちよくなれる音とリズムの音声記号をいっぱいに浴びて、踊る、踊る、会話とお酒を愉しむ、そしてまた、踊る。

 僕の年代から言わせてもらえば、後者の方の身の振り方、身体性の内の方からの衝動に身をゆだね、耳には絶えず僕の小学年後期から高校に至るまでの音楽がはいりこんでくる。さぞかし気分がよかろう。一方で、「聴く専」の僕は、その流れている曲のアナログ盤から発せられるレコードノイズがパチリチリチリと聞こえて、それが甘酸っぱい記憶を頭の中と胸の奥に線香花火のように小さく響くのである。このようにして醸成される空気感は、僕が物心つくのと同時に音楽に関する物心が目覚めた(こっちの方が厄介)若かった頃の記憶をも想起させる。

 踊っている人の数だけ、DJがチョイスする音楽に身をゆだねる人の数だけ、はじめてこういったところに音楽を聴きに来た人の数だけ、そして選曲をしてくれているDJのみなさんの手持ちの曲の数だけ、色んな形にオーガナイズされかけられた音楽の数だけ、数時間前までは「重くて」「痛かった」人間の群れの関係性から解き放たれた♡が、音が作る空気の流れにより漂いながら、また新しい「♡」を呼び込むのであろう。

 いつかこういった場所性は廃れていくと思われる。有機物由来のモノが織りなす小さな箱型の世界は希少な場所となっていく。

 無機質な音ににより鳴らされている無機質的なグルーヴもまた、よい。

 しかし、僕は、このまま親父化していき「昔はなぁ~……」と語り始めてしまうタイプに分類される前期、そして後期高齢者となる。でもいいじゃないか。今からわずかに生き残るであろうDJたち・クラブの箱・オーディエンスetc... 生きてさえいれば、この東京のどこからか、年老いた人々が織りなすグルーヴが聴こえてくる、いや、それは否応なく届いてきて、きっと身体が弾み出すはずである。

 そのときの音源は、Vynalでもない。Tapeでもない。CDでもない。——配信の進化系? なのであろうか。おそらく、それはそれらすべて含む超多様性メディアであろう。こうして未来の音楽メディアを妄想する。音楽を聴くという人生の愉楽があるから、そんなことを妄想するのも、また一興である。