talkin' bout two films of oasis

 今年に入ってオアシスを撮った二本の映画を観た。一本は『oasis supersonic』と題された伝記モノで、もう一本は『oasis FUJI ROCK FESTIVAL'09』。

 フィルムの批評を論じるエネルギーがいまだ枯渇しているので、それぞれのフィルムに対して、一言二言ずつ。

 『oasis supersonic』は、oasisの黎明期からネヴワースまでの道程を描いたドキュメンタリー・フィルムであった。全き個人的主観で言及すると、もったいないな、解散までの道程を見せてほしかったな、と。この映画を観終わったとき、僕は何やら不全感に囚われてしまった。下品に言い換えれば、寸止め感、と言ったところだろうか。それは、僕がこのフィルムを観る前に、オアシスの始まりと終焉を描いた映画を観るのだ、という勘違いからくるものであろう。群像を捉えたフィルムであり、楽曲に焦点を当てて編集されているわけではないので、まだ観ていない人には、音楽を聴くということに期待を持っていくと軽い裏切りが待っている。

 『oasis FUJI ROCK FESTIVAL'09』は、「生一本」というコンセプトをうまく映像化したフィルムであった。スクリーンに映し出され展開されるのは、解散直前のオアシスのライヴのみである。『oasis supersonic』での有機的に躍動するなオアシスの在りようと比べてしまうと、このフィルムの中に閉じ込められたオアシスは何やら「無機的」な「演奏機械」に見えてしまう。「リアル・オアシス」ではあるが破綻寸前の関係にあるのが隠し切れないギャラガー兄弟のふたりと、アンディ・ベルには申し訳ないが、オアシスの曲を兄弟ふたりの邪魔をしないよう振る舞い演奏する他の3人。
 この現場に存在しステージを体感した人々は違った感想になるだろう。しかし、歴史を知ってしまっている「未来」でこのステージを映画として僕は、墓標に記される寸前の人を観ている、さもなくば「見せられている」感覚に陥ってしまった。

――以上の2本のフィルムを1本に融合させる才能とショービズの動きはないのかな。僕はそれを観てみたい。