shady

 数年前、この国の社会が変わりはじめたとき、
 人々はそれまで社会を覆っていた閉塞感が開けていくような感覚に陥った。
 連呼される単純なフレーズに人々は飛びついた。
 「改革」という言葉に人々は踊った。
 政治家は、酔った。
 自分の頭で考える訓練を受けていないこの国の人々はそのフレーズを支持した。
 その裏側に企画されていたシステムの変更に気づかずに、支持した。
 そして、競争が社会の主要ルールとなった。
 競争に参加するのは、ほぼ自由になった。
 メディアを通じて人々の耳目に届くのは競争に勝った人々の物語だった。
 しかし、競争には必ず勝者と敗者が生じる。
 引き分けなんてない。
 競争に負けた人々の物語を、メディアは語ろうとしなかった。
 情報収集ができない人々は、競争に勝った人間の物語を自分にあてはめた。
 幻想を抱いた。
 政治家は競争の敗者のためのシステムを構築することを怠った。
 永遠に続く繁栄などないことさえも忘れて。

 経済の歯車が回転している間は良かった。
 競争に負けた人間は、競争に勝った人間のおこぼれに与り、幻想を現実化できていたからだ。
 経済の歯車が欠けたとき、競争に負けた人間は騒ぎ出した。
 競争に負けた人間はどんな理由があろうと競争に勝った人間の道具になるという、競争の原理を無視して騒ぎ出した。
 競争に負けた人間がする反論の根拠は人間の尊厳だ。
 「労働、生活の保障によって我々の尊厳は守られなければならない」
 現在の競争システムを否定しようとしている。
 しかし、それは自分たちの権利、言い換えれば投票して政治家を選ぶ権利を無視していることと同義である。
 選んだ使用者責任と声高に叫ぶが、その声はとても空虚だ。
 自分たちがこれまでとってきた行動を省みはしないからだ。
 悪臭さえ漂う。

 人間は平等ではない。
 平等なのは生まれることと死ぬことが決定されていた、そして、決定されていることだけ。
 競争に勝つ、あるいは負けるということは絶対的に平等ではない。
 それを脇に追いやって主張に「平等」や「権利」の概念を持ち込めば、議論の価値は地に堕ちてしまう。
 資本主義、市場主義の原理を組み込まれた社会にあって、敗者の人間的価値は一本の螺子の価値と同じだ。
 敗者が共同体の論理で救済されたいと叫ぶのなら、今まで自分がしてきた行動を振り返ろう。
 自分で何が問題でこれからどうすれば良いのか考えずに、組織の要請に従って自分の持つ一票の権利を行使してきたのではないか。

 解雇された派遣労働者が声高に解雇撤回を叫ぶことに、どうしようもなく胡散臭さを感じる。
 それ以上に、いまさら対策を講じようとする政治家はもっと胡散臭い。
 企業は現在原則に則り行動しているだけだ。
 社会的責任を果たすにも、自分たちの会社が倒産してしまえばそれまでだ。

 競争とはなんと虚しいものなのだろう。

 今回の一曲:“Finest Worksong” by R.E.M.