2017.08.22

 ゴミを出そうと玄関の扉を開け、外に出てみると、今朝の空模様も曇天気味だった。八月に入って以来、まともに晴れた日は一日もない。

 気象庁が季節の変わり目ごとに発表する四季の予報は現実化しないことの方が多い。彼女ら・彼らは、この夏は盛夏になるだろう、高温の日が続くだろう、と予測していた。気象の予想を立てるのは、僕が思っている以上に難儀なことなのだろう。気象庁も所詮ミスを犯す性質を内包した人間の集まりだ。しかも人間は自然現象の中で、現在の形質や特質を備える動物となった。そんな人間が、晴、曇、雨、雪、風、暑、寒といった自然現象を科学及び科学技術を用いて、のちの天気を予測しようというのは不可能だ。

 自然は常に人間の想像力より何歩も先んじている。覆しようのない、人間の力ではアンコントローラブルな、普遍的現象なのだ。自然現象をトレースして次に自然が起こそうとしていることを知ろうとするのは、十六世紀から十八世紀にかけて急速に発達した哲学や倫理学、科学・科学技術を手にした人間たちの妄想でしかなおい。しかし、いま現在に至っても、人間は、特に先進国と分類される国や地域に生活を立てている人々には、その事実がどうも受け容れられないらしい。、

 これから「異常気象」という言葉がかます厳しく騒がれるだろう。自然は、ちょっと我々の想像力では捉えきれない領域にある。自然にとってはほんの少し違う顔を見せているに過ぎないのだが、それを人間は「異常気象」と断じてしまう。その際、異常なのはむしろ、自然や世界のあり方を鑑みず「異常気象」という言葉で、あるいは概念でこのことを理解しようとしている人間の態度だ。

 「異常~」といった言葉により指示された意味や、そこから一般性をまとうようになり概念へと昇華していくプロセスを見直して、〈認知〉⇒〈受容〉⇒〈共存〉⇒〈共生〉への道程を自らの内に採りこむ必要があると思う。自然現象の揺れに人間活動から生じた物質は、どの程度なのかは分からないが、影響しているといわれている。近代に入り構築された新たな社会を疑ってみる人間が必要だ。

 日本でいえば、そうして文脈の中で日本を読解していかなければ、超高齢社会に資する新たな社会のあり方をビルドアップするのは不可能に近い。よしんばできたとしても、旧来の政治家により骨抜きにされるか、各省庁間の利権の綱引きが相も変わらず跋扈し、運営時点ではそれが効力の薄い政策になりかねないのは明白ではないだろうか。
(つづく)

(了)