crisis of intelligence

 僕は、昨今の与野党の政治家の「悲喜劇」をメディアを通じて目の当たりにして、権威を纏った人間のそのほとんどが知性を劣化させていくのだという条理を知り、それを傍観している。そうして心の中にある種の諦念が惹起していくのを抑制できないでいる。その感情は、これまではもっぱら劣化しつつある自分自身の存在に向けられていたが、これからは政治家たちのみならず、メディア、特にマス・メディアに携わる人間にも向けられていくのであろう。
 古館氏(彼の存在はマスメディアの中でも報道の分野において無視できないほどの影響力をもっている)の発言は、アイロニーとして成立もしていなければ、クリティークにすらなりえていない。アイロニーやクリティークはある程度成熟した知性を備えていなければ機能しないものだと僕は思っている。なにも僕は又吉氏を擁護しようとしてこれを書いているのではない。ただただ、政治やメディアで己の知性を発揮しなければならない立場にある人々が、国会の委員会採決において「喜劇」を演じ、映像と音声を通じて頓珍漢なコメントを不特定多数の人々へ向けて放つようになった現在の状況を憂いつつ、劣化しつつある自分も含めて公における知のあり方を、そしてその使い様をリヴィジョンしていく必要があるのだということを知るのみである。
 
 ただ、「この人は様々な世界を考察した上でマス・メディアを通して世界に起きる事象を伝えているのであろうか」という素朴な疑問から、こんな駄文を書いている。
 この人は、おそらく、「芥川賞」(当然「直木賞」も含む)と「本屋大賞」の構造と意義の違いを知らないように見える。そして、他者を笑わせる職業の意義を知らないようにも思える。彼の発言の裏側には固定観念化した「職業のヒエラルキー」があり、又吉氏の受賞に対する考察の結果(そこには多分の偏見が入っている)を、「大衆受け」するであろうと判断した言葉に置き換えてカメラの向こう側にいる人々へ放ったのであろう。
 個人攻撃、マスコミ攻撃、政治家攻撃をしたいわけではないのであるが、彼のこのような態度、振る舞いは現在国政の舵取りをしている、与野党問わず議会の成員たちと同質である。政治に対して相対化され得ない立場から取材し論じるマスコミの言説にリアリティが伴っていないように思えてならないのは、こういった同質性のせいではないだろうか。それが露わになったのが、今回の古館氏の振舞と発言である。しかし、現在の代議士の面々を選択によって国会へと送り出したのは、大多数が権力も権威ももたない国民である。
 
 したがって、「知性」そのもののあり方を問われているのは国会議員や古館氏ばかりではなく、我々選挙権をもちそれを行使する国民の「知性」の質もまた問われているのである。さまざまな様相を見せる事象が絡み合い複雑化していく一方の現代社会において、時代から求められている「知性」とは何か問い続け、その結果を基に行動して世界や社会の変容や変化に対応していかなければならないときがやってきているのである。