thought about the meaning that i take a photograph, again.

なんだろう、と考えてみた。
これは前にもどこかで書いたと思う。
それは言葉のために写真を撮っている、ということ。
言い換えれば、言葉を刺激する資料が欲しいということ。
僕は頭の中の、そして胸の中の感性がそのままの塊でありつづけることに耐えられない。
つまり、言葉にしないと安らげない。
身体のどこかで感じられているものが何であるか言葉に置き換えて確認せずにはいられない。
だから言葉がその何かを僕へ、
そして誰かへと伝達できるようなかたちをもって立ちあらわれてくるように刺激したい。
感性はありのまま受け取りかたちにすればいいって言う人もいる。
たしかにそれは素晴らしいこと。できればそうしたい。
だけど、才能のなさなのか性能の低さなのかわからないけれど、
拙い言葉にでもしないと不安でしかたがなくなる。
たとえばいまこんな意味のないことを書いているように。

これは人間的な幼さであり、孤独に耐えられない体質が根本にあることの証左。
誰かといっしょにいると苛立つことが多いくせにね、自分。
言葉は関係を結ぶために存在する道具。
だから何でも言葉にしたがるというのは誰かと何かを関係をもちたいと欲している証拠。
関係は、人間と人間、人間と自然、人間と世界などというように2者以上の発信源がなければその意味をなさない。
その反対に自己と内なる感性の関係は、実は、言葉を介してしまえば何の意味もなくなると思う。
すくなくとも僕の場合は。
言葉を用いて自己と関係をもつと感性がより矮小に規定され、
結局のところ凡庸なものに成り下がるだけではないかと思う。
そういったロスを最小限に食い止められるのが職業作家や職業写真家、職業音楽家たちであり、
すなわち「その道で食べている」人間たちだ。
だから彼女/彼らを僕はジャンルを問わず尊敬する。
その好き嫌いは別においておくとして。

写真を撮るふたつの理由がこれで見えた。
他人を傷つけることによって自分の存在を確かめ救おうとするためだということ。
言葉のためだということ。

あー、なんだかなぁ。
イイタイコトが書けない。
こんな中途半端でも出しちゃえるのはBlog のいいところ。
それは自分を裏切ることでもあるのだけど。

また考えます。出直します。
アホな自分にヒント、いただけませんか。

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「感性まっしぐら」な一曲 : 『ワイプ・アウト』 by田辺明知とザ・スパイダース

… いわずとしれた、ザ・スパイダース
  そのザ・スパイダース初期の、The Safaris の曲の名カヴァー。
  ホントの内実はどうかわからないけど、
  若気の「プロフェッショナル的」至りが暴走しまくっています。
  これを感性の現われといわずして、なにをいう。
  村上ショージじゃないけど(失笑と涙)。
  と思います。
  UKから外れちゃって申し訳なく思いますが、今宵は許してください。

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