leave the flowing


 タイトルのごとくこの世界を生きていければよいのだが、現実問題、そうは問屋が卸さない。1971年の春に生まれ2015年の年の瀬を迎えている今でも、僕はリアルな世界の中を這いずり回っている。たとえば、先々週、友人たちと呑んだのだが、自分の身体の病状を抑える薬と摂取したアルコールの食べ合わせが悪く、悪酔いをし、それまで友人だった他者たちに悪態をついたみたいだ。「~みたいだ」というのは、その一部始終が自分の意識の中に保存しているはずの記憶から、その時間に起きたことが何であったのか、欠落しているからだ。

 「二度あることは三度ある」「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、以前にも同じことを今回の一件とは異なる他者に対してしてしまったという「前科」がある。そう、僕には「人のふり見て我が振り直す」という社会的動物の基本的ポテンシャルが欠落しているのだ。どんなに「こんなこと二度と繰り返すものか」とのたまわり、決心しても、次の瞬間が現在になる刹那に元に戻ってしまい、人間関係を構築する上でしてはならない所作を繰り返し現実世界で行ってしまうのである。

 僕の心の基底には、独りぼっちも、誰かと一緒に遊ぶのも、酒を酌み交わしながら議論するのも、誰かを愛するのも、それらの何もかも失いたくはないという思いがある。しかし、たいていの場合、僕はそれらを自分から破壊していく。身の回りのすべての世界のあり方が自分の思い通りになり、存在することは決してない。分かっている。だが、世界の方から先に崩れていくのを待てず、いつも自分かりら壊していくのである。無意識的にも、意識的にも。全くもって、他者にとっては迷惑な存在である。世界にとって有用な存在でいることを自ら拒否する人間を、自分の世界を構築しているところの人間関係の中に住まわせているのだから。

 我が身を、いまさら振り返ると、セルフ・コントロールという理性的人間に備わっているはずの能力を欠いているのが自覚される。また、マイナスとマイナスをかけ合わせてプラスに転じさせるような魅力的人間でもない。ただ単にマイナスを積み上げていき、希少な他者との関係において、積み上げたマイナスをぶちまけ、そののちの罪悪感からくる自省もほどほどに、また同じことを繰り返していく。その結果、僕の世界はネガティヴな縮小へ向かっていく。

 淀みのない流れの中を生きていきたい。ポジティヴィティが連環する時間を揺蕩うように過ごしていきたい。

 一般に「人間は、自らの生き方を自分の努力で良い方に変えられる」という。それは、この世界に生きる人間たちの一般的な共通認識である。だが、僕は一度たりともそうなった経験を持ち得ていない。そうしようと努力しないからだろうか。はたまた、それができるスキルをまだ持ち得ていないからだろうか。あるいは、もともと、生物学または自然的に僕には不可能であるからだろうか。

 僕の存在が理由となって友達を失った悲しみだけが、今は内にあるだけだ。