"i'm a racist"

 頑張れ。
 この言葉、大嫌いだ。
 今夜、吉祥寺で呑んだくれていて、再び、そう思った。
 この言葉、吐く人によって大分、違う。
 僕は、言わない。
 言うときは、僕にとって、どうでもいい人間に対してだけだ。
 つまり、その人間の程度を見切った、ということ。
 そんな意味のない言葉、その程度の実も蓋もない言葉しか通じない相手だということだ。
 甚だ、傲慢である。
 しかし、それは優しさでもある。

 頑張ることは誇ることではない。
 努力することと同様に当たり前のことだ。
 プロフェッショナルのスポーツ選手を見ればわかる。
 彼らは一般庶民向けの、マスコミから受けるインタヴューにおいて、最後にこう言うことが多い。
 「頑張ります」
 だが、彼女/彼らが放つ頑張るという言葉に実感がこもっている様子はない。
 彼らはそれが逃避の意味を含んだ言葉であることを知っているからだ。
 そして自分がその世界で飯を食っていくためには、そんな言葉など言っている暇はないことを知っているからだ。
 つまり、当たり前すぎるのだ。
 頑張る、努力するは時間を先送りするだけの免罪符としての機能しかもっていない。
 
 歌を聴いていてもそうだ。
 前に書いたことがあるが、日本人なら甲本ヒロト以外の「頑張れ」には胡散臭さを感じる。
 理由は定かではないけど、上滑りしているような感じがする。
 歌うたいそのものの程度の差なのだろうか。
 わからない。
 でも、これだけは言える。
 甲本ヒロトは、どんな人間でもすべからくダメな存在であり、どうしようもなくアホな動物であることを知っている上で、頑張れという言葉を吐いているから、どうしようもなく説得力を持っているのだ。
 つまり、ダメな部分、アホな部分、すべてのマイナスを受容しているからなのだ。
 ともかく、他は胡散臭い。偽善である。
 人間を中途半端に信用しているからだ。

 ならば、僕は偽善的行為をしないのか。
 徹頭徹尾、偽善者である。
 ただし、「頑張れ」が通じるような人間と違うところは、
 自分が「偽善者である」という判断を、自分に対して下しているかどうかの差である。
 ダメだと気づいているかどうかの差である。
 だから、甲本ヒロトの「頑張れ」には悪臭がこびりついていないのかもしれない。
 そして僕は「頑張れ」という言葉をリトマス試験紙の代わりにして、人を見切る。

 佐藤伸治は一言も言わなかった。
 頑張れ、と。
 佐藤伸治の言葉は踏み絵だ。
 彼の紡ぎだした言葉は、心に抑圧を感じたりや傷を負っていたりしている人間でなければ、響かない質を持っているからだ。
 メロディも、音像も、そうだ。
 甲本ヒロトと同じ理由だ。
 だから、フィッシュマンズの歌がそのひとの内面で響いているのかどうかで、信用できる人間なのかどうか、同じ国の言葉を話しているのかどうか、通訳がいるのかどうかがわかるのだ。
 まぁ、フィッシュマンズじゃなくても、話していればたいがい、わかるけどね。

 通訳が必要なひととは話をしたくない。
 向こうもそう思っているはずだ。
 でも、話さなければならない。
 だから、日本語でも、二カ国語を使い分ける必要があるのだ。

 僕はレイシストだ。
 それが僕のレイシズムだ。
 今日も人を見切りまくる。
 そして、見切られまくる。