母・父の存在から生じた、いまある自分の存在。
でも、「母・父がいるからあなたがいる。だから母・父を敬いなさい」という道徳的教育は意味をなさない。
特に現代においては。このような因果で子どもたちを説得することはもはや何の意味もなさない。
現代は競争による勝敗によって人間の価値が決定される側面が強い社会、時代だ。
必然的に「負けた人間」は、「母・父が自分を生んだこと」に自分が競争に敗れた理由を求めることがあるだろう。それが一番、楽だからだ。
そうして自分の存在を否定することで、「母・父の存在」が負けた理由になり、ある種簡単に「負けたこと」に対する意味付けができる。
人間として(人・ひとではなく)存在するためには、他者との関係上に浮かぶ理由が、根拠が必要だ。
だから、そこに浮かんでいる理由をつかみそこねたら、自分を傷つけ自分の身体を確かめなければやっていけないし、実際の皮膚の上を着飾らなければやっていけないし、せめて他人と同じようなレヴェルのモノを求めなければやっていけないし…。
少なくとも僕は、道徳に胡散臭さを感じながらも、何とかそうして心臓を動かしていく。
勝敗は過去においてのみ存在する。
現在には、争っている最中だから、勝敗は存在しない。
未来には、まだ争う前であるから、勝敗は存在しない。
「歴史」の中の勝敗は、主体の視点によって揺れ動きながら決定されるから、曖昧である。
だから、勝敗は過去の中にのみ存在する。
しかし、いま自分がこのように存在する理由は過去を再構成した「歴史」の中に存在する、と思いがちだ。
実際は、過去に依拠していまの自分がいるはずなのに。
過去は変えられない。しかし、「歴史」は変化させることができる性質を持つ。
その時に起きた現象≒過去そのものではないからだ。
いくらかの記憶の証拠と物証をもとに、想像力によって創造されるものだからだ。
人間はしばしば、自らのことを、「歴史」≒いまの自分の存在価値という式を通じて考える。
良い方にも、悪い方にも「過去」の内容を変化させて、いまの自分の存在の意味を規定する。
だから、悩む。
いまの自分は、変えられない過去と誰も予言できない未来とのはざまにある存在だ。
未来は、いまによる可変的な性質をもつ。
いま自分が何を為すかによって未来における「いまの自分」がどのようなものになるのかを左右する。
悩んでもよい。しかし、基本的性質を置き去りにして悩むことは、自分を「歴史」という檻に閉じこめてしまうようなものだ。
「頑張れば夢が叶う」などという歯の浮くような、実質的意味などないことばを言うつもりはない。
頑張っても夢は叶わないことがある。これが、真理に近いことばだろう。
いまの自分が行動する結果を、未来の自分が引き受ける。
それが、ただただ繰り返されていく。
これをあるレヴェルまで受け容れることが、道徳的な「歴史の檻」から脱出する方法のひとつであり、生きること、人生なのではないか。
倫理、というやつなのではないか。
すべてを受け容れるのは不可能だが、それも倫理というやつがもつ性質のひとつなのだ。
戻るのか。道徳へ。
すべからく人間は忘れる動物だ。
あと3日もすれば、分かる。
ほんの少し。
道徳を重視する教育へ再シフト、そして、大人も子どももさらに混乱をきたし、現状がさらに悪化する光景が頭の中に見える。
コインランドリーで洗濯が終わるまでのあいだ、そんなことを考えた。
ウザいね、自分。
雨がふってきそうな雲行きになったり、雨が数粒落ちてきたと思ったら、陽がさしてきたり。
大嫌いな夏がやってきた。