It was a good rainy day.

 今日、ここまでは久方ぶりに休みらしい休みである。

 僕が目覚めた午前中には、昨日からの雨はあがっていたようだ。ガラス戸を開けてベランダから外界を覗けば、相変わらず今にも泣きだしそうな灰色の雲が厚く垂れこめ世界に蓋をしていた。幾分か肌寒い空気が漂う。戸の開く音に驚いた鳩がベランダから空へ羽ばたいていった。それとも僕の存在に驚いたのだろうか。

 パソコンの電源を入れiTunesをたちあげる。さて本日最初のお客さんは誰?

"Fantastic Day" by Haircut One Hundred

 ふむふむ。悪くないよね。そして先日、脳溢血で倒れ闘病中のEdwyn Collinsのことを思う。もののニュースによるともうすぐリハビリテイションを開始できるらしい。まったくもって良かったと思う。彼が再び音楽をその身に取り戻して、それが僕らへ届くことを願ってやまない。でもゆっくりでいい。僕らは気長に待っている。Orange Juice以降もそのようにしてきたのだから。

 そうか、なんだか今日はいい感じだな、と思う。休日特有の頭痛の気配も今のところない。昨晩いろいろと考えて辛くなり結果眠れそうにもなくまんじりともせず過ごしたことが、C級映画を観たときのごとくすこしだけ冗談に思えてきた。頭痛薬を飲むことも、このぶんだと回避できそうだ。1日の出だしのありようでこうも変わるものなのだろうか。何がそうさせるのだろうか。

 午後いちで読んだ、知り合いの尊敬する人生の先輩からのメールにあった「ひとこと」は大きかった。そうなんですよね。まったくそうなんです。ほかにはなにもいえない。

 朝は届け物の配達で起された。内容は仕事場からの物。働けというサイン。もちろん。忙しいほうがいいのかもしれない。まだまだ飢え死なんてまっぴら御免、願い下げではある。

 しかし、四方田犬彦はこういう。「…忙しいことよりももっと恐いことがある。それはすっかりひとりぼっちになってしまったところで、本当の自分と向かいあってしまうときだ。(中略(エミリー・ディキンスンの詩や逸話が挿入される)) この精神の試練に耐えられない人はてっとり早く多忙さの側へと逃れるといい。(中略)そのうち、きみは出会うべき自己などとうに忘れてしまうことだろう。」(『待つことの悦び』(青玄社・1992))

 この言葉をしっかりと確認するために、書庫代わりにしてある押入れから彼の著作のいくつかを探しだし、引っ張りだし、頁を捲った。それを見つけたとき、あぁ、こういう行為自体が今の僕に欠けていたのかもしれない、だから様々なことが調子悪くなっていたんだな、とほんの少しだけ合点がいったような気がした。仕事という行為に彩られた時間の合間にふと穿たれた空間。やはり僕にはこれが必要だったのかな、と思う。それまではすべて、何かあるごとにどこかで生活のための行為に心が引っ張られ、そのときごとに間違った選択をしていた。そう思わざるをえないことばかりだ。そうすれば昨日までの散散だった気分に多少説明をつけることができる。すべてではないが、その方向がどちらを向いていたのかぐらいの説明はつけられる。

 休みの日の儀式、コーヒーなんぞを入れたら、今日はこれからどうしようか、なんて考えた。どうせまた来週からは恐ろしく忙しくなるのだ。今のうちに本を見繕っておこうと思った。本との偶然の出合いを求めて、本日は古本屋巡りに出ることにした。書店巡りではない。なぜなら今月はすでに生活のために借金を少々こさえているからだ。そして本選びは偶然にまかせる。僕の場合それは人に対してとる行為とそう変わらない。

 その後も我が家のiTunesさんはいい選曲である。実のところ今現在も心の中には明けることのない、軽くなることのない夜空や蟠りがあるのだが、昨日まで彼はそれに合わせた選曲をしていたものだし、それをプレイリストにより強制して鳴らさせていた。悲しい行為だが。でも今日は何か方向性がずれたような気がする。ちょっとだけ良い方へ。それは受け取る側である僕のメンタリティを表しているのかもしれない。

 出かける準備をするためにまずシャワーを浴びる。そしてあたたかく勢いのある水流を浴びながらふくらはぎをマッサージしてみる。最近これをすることをすっかり忘れていた。そんなに余裕がなかったのかな。足首の方から心臓のほうへ向かって軽めのタッチで揉み上げる。足首の下から足全体にかけての血流が甦るのを感じるのではなく、知る。ことのほか気持ちがいい。水流が風呂場の天井付近の高さから勢いよく僕の肩に叩きつける。小さい、細かいしぶきが四方に飛び散る。飛び散ったしぶきが僕を包み込む。さすがにこの風呂場に虹を作りだしてはくれないが、風呂場の外の世界のどこかに虹がかかっているような妄想に囚われる。

 音楽を鳴らしていたパソコンの電源を落とす。そうこうするうちに準備も整った。とはいっても服を着てカメラと財布を持つという準備だけだが。部屋のドアを開けた。肌寒い空気が僕を出迎える。階段をおりる。建物の外にでる。雨は降っていない。そして、まず近くにある青い看板のコンヴィニエンス・ストアで1ヵ月分だけ滞ってしまった借金を払う。なんとか用意した金なので、ちょっとだけ癪に障るし未練があるが仕方がない。世間では当然のこと。

 さて、どこを巡ろうか。電車には乗りたくない気分だし、そもそも遠出なんて気分でもない。そうなると話は早い。近くの古書店巡りだ。行きつけは3件ある。

 自販機で缶コーヒーを買う。暖かいやつ。よく缶コーヒーなんて飲めないというコーヒー好きの人がいるが、僕の場合はどちらでもいい。それはそれ、これはこれという感じだ。歩きながら、曇り空を眼の上のほうで捉えながら飲む缶コーヒーはいいものだ。

 いつもの小さな公園に立ち寄る。いつもとは逆方向の、細い道のような入口から入る。そこで鯖虎のまだ幼い猫が1匹、細い柵の上をこちらへ歩いてきた。出迎えてくれたような気がした。良いほうの、そして僕がちょっと前まで、いや今でも求めている偶然がそこにあった。心がほっこりする。猫に導かれて公園の奥のほうへと歩を進める。公園の桜は半分以上の花弁を土の上に落としていた。そのいくつかを水溜りにうかべていた。公園の藤が枯れてしまい何も絡んでいない藤棚の下に宿無しの人たちが集まり情報交換をしていた。ここだけの日常がひろがっている。

 何回かシャッターを落として公園を通り抜ける。そのときぽつりぽつりと雨が落ちてきた。空が泣き出した。傘はない。

 歩を速めて何件かの古書店をまわり11冊仕入れた。ほとんどは初読だが文庫で買い直したのもある。そのあいだも視線の先にあるものへシャッターを何回か落とした。

 帰り道、魔が差したのか贅沢をしようと思いたった。普段食べないものを食べよう、と。小さな贅沢。前はよく足を運んでいたラーメン屋に入る。何を食べようか、少し時間をかけて考えてから食券を買う。行列ができるようなラーメン屋ではない。さすがに夕方の入りという時刻である。客は僕1人だ。すぐにラーメンが供された。何の変哲もない醤油ラーメンを食べる。乱雑に切られた野菜がスープに浮かんでいる。さすがに人気がないわけだ。でもそれがいい。並ぶ店なんて大嫌いだ。うまかった。3食分ちょっとの金を払ったかいがあった。スープは全部飲み干した。でも味はわからない。食べ比べなんて学生時代以来していないから僕は何もいえないのだ。

 ラーメン屋を出ると雨は本降りになっていた。道を行く人みんなが傘をさしていた。

 そうこうして帰宅し、これを書いている。もうすぐこの気分も終わるのだろう。明日からはまた別の、いつもの日常が姿をあらわす。Thomas Hobbes "Leviathan" に出てくるような怪物の姿で。

 こういう日を過ごす自分が「出会うべき自己」なのだろうか。何がそうさせるのか。結局、わからなかった。