ここのところ、いろいろと記憶○○年分を巻き戻していて思ったこと。
楽しかったという記憶が何にも出てこないということ。
楽しかったこと、あるのです。たくさん。あのときこのときって、たくさん指を折ることができる。
だけど、それらはすべて本の目次のように記号として立ち上がってくるにすぎない。そして、楽しかったことに何の意味があったのか、わからない。
記号は象徴でしかないから。それらが示す内容を忘れてしまったようだ。
反対に、せつなかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、いやだったことは湧き上がるように、手で触れることができるかのように浮かんでくる。ひとつひとつを捉えることができる。
自分を時間軸上のある点に戻そうと思って、どこに着地しようかなと場所を探していた。着地できそうなところは、そんな場所しかなかった。
楽しげな場所に着地しようと思ったのだけれど。
辛すぎる出来事や場所は思い出すことすら、ない。
拒否する。その出来事を読み出すことも、もういちど辿ることも。
記憶とは別の種類のものだからだ。
自分の内へ取り込むことだって、記憶のルートとは別の道を辿ってしまい込まれる。
だから、思い出せない。
我ながら、こんなもんかなぁ、と、いつも通りの「なんでも受け入れモード」に入ってしまった。
そうなんだよね。記憶って結局、マイナスのヴェクトルを持つ出来事しか溜めこまない性質をもっているのかもしれないな、と。
考えてみれば、「あのとき○○して楽しかったなぁ」「△△はおかしかったなぁ」と、あとから記憶を引っ張り出して、ほくそ笑みながらニヤニヤしたことなんてなかった。あのチーズケーキ美味かったな、動物園楽しかったな、テニスの試合で勝ったな、なんてことを振り返って心がほっこりすることはほとんど、ない。
現実はその反対ばかり。今の状態がそう僕に思わせるだけかもしれないけど。
誰かを好きになったら、その始まりよりも終わりへと近づくにつれて記憶として鮮明に残っている。自転車にはじめて乗れたという充実感よりも大怪我をしたときのことが確かな感覚として蘇ってくる。
楽しい、心がそよぐような出来事は思い出としてあっという間に消費されてしまうものなのだろう。きっと。もしかしたら、その場限りのものなのかもしれない。だから、楽しみというのは刹那的なものなのだ。
逆に、うちひしがれるような出来事は心の中に溜まりながら、幾重もの層を成して残されていくものなのかもしれない。いや、きっと。
今日、突然、空から落ちてきた大雨の中、心動かしながら見た煙る街も、一過性のものなのだろうか。
その光景は、せつなかった。だから、後者だろう。
思い出せる楽しい出来事は、記憶じゃないのかもしれない。「記憶」だと勘違いしていたのかもしれない。記憶のようなもの。記録、なんだ。
心の中に残像として、手で掴めるかのように残されたものが、僕は記憶だと思う。
別れ際に言う決まり台詞に「楽しい思い出をありがとう」というのがある。
僕はこんなこと言えない。そんなの消費されちゃうよ。すぐに。確かなものじゃないから。
でも、言ったことがある。昔、付き合っていた、一緒に住んでいた女性と、絶対に避けることができない事が起きてしまい、別れることになったときに。憶えている。だけど、その言葉を言いたくないのに、言わざるをえない状況になって「言ってしまった」のだから憶えている。
女性は、僕ではない、他人による新たな命を宿していた。
最後の晩に、一つの蒲団で一緒に寝ていたときだった。向こうがはじめに、言ってきた。その言葉を、その関係を受け容れるしかなかった。だから、僕は同じように返した。
キスをしたかもしれない。だけど、確実には憶えていない。辛すぎる出来事だったから。
自分の無力さを感じた。悲喜の感情ではない。ただただ、無力だった。彼女に罪はない。自らの内なる声に従っただけの話だ。
すべては自分が悪いのだ。もともと性能の低い人間であったから、彼女に迷惑を掛けてしまっただけの話だ。
そうして、「楽しい思い出をありがとう」は記憶になった。
「あのとき楽しかったね」「あれ美味しかったね」
こういうのは現在進行形の誰かとの関係の中で声としてはじめて成立する、単なる言葉だろう。
その場で消費する記号だ。
ならば、悲しき残像、記憶と呼ぶべきものを内に飼いならすしかないのだろうか。
付き合っていくしかないのだろうか。
たぶん、それしかないのだろう。
だから、無理をして楽しい記憶を蘇らせることに意味はないのだろう。
だけど、楽しい記憶を残像として残せたら、少しは成長したっていえるのかな。
わからないよ。
別の方法があったら、教えてほしい。