suit! suit! suit!

 あぢぢぢぢぢ。
 久しぶりにスーツを着ての感想。たかが池袋へ行って、仕事の面接を受けただけなのですが。普段スーツを着て外回りをしていらっしゃる方々、あなた方はすばらしい。偉大だ。それがよおくわかりました。「よおく」は感情の度合いを表すためにわざと、そう表記しています。念のため。
 しかし、前々から思っていたのですが、スーツっていうのは存在拘束具ですね。意識変革具、と言ったほうが良いのだろうか。普段はだらしない格好をしている私は、スーツを着て外を歩くと、身体の動きが変わっていきます。部屋を出た瞬間から、徐々に変わっていきます。
 まず、歩き方が変わる。革靴を履いて歩くとしっかり踵から地面につこうと、身体が勝手に動いてしまう。なぜなんだろうな。あの音を無意識のうちに聴きたくなるのでしょうか。カッツ、カッツ。
 この踵の音、私は、普段している格好のときに、他人の「カッツカッツ」を聞くと、「なぁんだ、でめぇ、このやろう」と思う代物なのです。わざと鳴らして存在をアピールするんじゃねぇよ、そんな風に思ってしまう小市民なんです。プチ・ブル的響きとでもいうのでしょうか。
 次に、姿勢が変わる。普段は猫背の背筋を伸ばそうと思いますもの。スーツを着ると。やっぱり。昔見たテレヴィで紹介していたモデルのウォーキングを思い出しながら。「天井から糸で吊られている感覚」っていうのを。ええ格好しいの私は、よく見られたい菌に冒されているので、どうしても、ね。誰も見ていないんだけどさ、もともと。でも、これまた、そうしたプチ・ブル的姿勢をとってしまうのです。
 表情が変わる。電車の窓に映った自分の顔を見て、あぁ、ここまで変わるのかと思いました。普段のだらしない表情が、なぜか、しまっている。眼光鋭くなっている。顎の角度が変わっている。これは姿勢とも関係してきます。
 すごいと思いました。スーツの効用。
 それだけの記号力を持ちえている。スーツは。その記号を身に着けると、その表すコードに沿った社会的行動を求められる。そして、求められた行動規範に合わせようとする自分がいる。あらためてそれに気付かされました。
 逆もいえます。普段の格好ときは、スーツを着ているときと同じ行動をとろうとしている。やはり、身に纏っているコードに沿った身体行動を取ろうしている。だらしなく、うつむき加減に。踵を引き摺って。
 このように見てくると、服は何を着ても自分の行動規範を決定するコードということができます。でも、果たして、その服を選んだのか、選ばされたのか。そこのところでちょっと悩んじゃいました。
 そこで、私は選んだのだ、と思いこむことに。だって、いつも着ているもののほうが、安楽なんだもの。安楽っていうのは語弊があるのかな。では、こういう生き方して後で後悔しても自分で責任とりますよ、ってことです。どこまでできるか定かではありませんが。ま、社会の側は、なかなかそれを許してくれない状況を作ってくれますけど。
 でも、踊らされているだけかもしれないなぁ、と思いつつ、最近まともな服を買っていないから踊らされていないか、とも思う。でも、そういう人っている。見ればわかる。服だけ歩いているように見える人。見ていて違和感を感じる人。これはどんな格好をしていてもわかります。スーツだろうがカジュアルだろうが、老若男女問わず。タンクトップひとつとっても、男の子たちのチョイスを見ればわかる。自分のことを見つめながらサイズを決め、他の構成要素のアイテムを見つめながら色や着崩し、ずらしを決めたりしているのかいないのか。そこを見れば踊っているか踊らされているのかの違いがわかる。センスの問題、といったらそれまでなんだけど。見る目がない人。服も自分も、外も内も、ということ。
 え、私。私はセンスありません。どちらも。だから、センスある人が逆相として見えるんですよ。そこから、いま言っていることを書いています。
 あとは、隣の人を見てそれを選んだんだろうな、という人。何も考えていない人、多いんだよね。こういう人って。話してみると、自分の所属している社会内カテゴリーを、無条件で受け入れている人が多い。疑問に思ったことがないんだろうね。そこにいることを。誰かが何をして、その人をそこにいさせてくれていることも。そして、右から左へと、ベルトコンベア方式で行動を起こしていることが多い。つまり、何にも考えないで何かしているという。
 楽しみ、ということでいえば、何をすれば結果としてこれくらい楽しいという、楽しみの度合が結果として初めから見えてしまっている状況で、それを確認するために行動するということでしょう。マニュアル本を見ながらドラクエやるようなもの。楽しみがモノ化している。
 楽しければそれでいい。楽しいのはとても、とても良いこと。私も楽しくなければ、嫌です。駄々っ子になります。だけど、その手の人の多くは、楽しいことを右から左へ流しているから、後でその経験が生きることに多様性を与えていない。永遠に同じことを同じレヴェルで楽しめる人たち。だってモノそのものなんだもの。洒落になっていないか。でも、いい面もあるのです。こういう人たちがいるおかげで、日本は経済大国としてやっていけるんだし、サーヴィス業もこれだけ興隆し、雇用を創出してくれるのですから。ヴィヴァ、モノ化。
 大人っていう定義のひとつは、そのときまでに様々な記憶を抱えこんで、それをいちいち引き出して楽しむことができるようになるっていうことでしょう。酸いも甘いも噛みしめる、とはそういうことでは。また、記憶が行動を補助するということも。だから、大人になるのがいやでも、何とかやっていけたりする。反対に、大人になるのが楽しみになったりもする。
 記憶はモノそのものには生まれない。モノの周辺部に立ち上がるような性質をもっている、はず。たとえば、歌(=モノ)。涙なしには聴けない歌があったとして、そのときのその人の状況が深く絡んできますよね。好きな人に振られたとか、うまくいかなくて辛い時期だった、などなど。私のことじゃないっすよ。って嘘です。すみません。つまり、生における多様性が、記憶を保証するように思われます。
 だとすれば、多様性をもたない人はどうなるか。自分の生をモノ化するしかないですよね。しかも、無意識的にそれをおこなっているから、誰がどのように指摘したところで、永遠に気付かない。反対に、なにこいつ、と思われて、はい、おしまい。ということになる。だって、その人にとっては、私はモノ。私との関係もモノ。嫌いなモノは見ない、見たくない。結果、遠ざける。至極当然の論理です。たとえば、虫が嫌いな人は「モノ」を「虫」に置き換えれば、わかりますよね。嫌いなものに置き換えてみてください。
 ちょっと脱線してしまいましたが、当然、服のチョイスや着かたにも表れてきます。
 刹那的な楽しみ方も、自分のことや自分を取り巻くものを客観的に見れていたら、それはとても素敵なことになり得る。でも、その反対は。
 私とそんな彼女/彼らは、話そうが何しようが、一生分かり合えないとは思います。
 残念。だけど、分かり合えるっていうほうがおかしい。幻想。
 多様性って重要だと思う。例えば、職人さん。職人さんはいつでもひとつの事しかしていない、単純性の見本のように見られがちだけど、実のところは、日によって体調も温度も湿度も材料も変化しているにもかかわらず、全き同じレヴェルのものを、いつでも作れてしまう人のことをいうのです。これは逆説的な多様性を、その身をもって表してるということ。様々な条件の中からひとつのものを作るというのは、職人さん自身が多様性を体現しつつ、内包しつつ、核のようなものを様々なものごとの内に見ていなければできない。
 職人さん、リスペクト。
 同質性を植えつける道徳、ヘイト。
 スーツを着たせいで、そんなことを考えつつ、池袋から帰るとき、上野駅で人身事故が発生したために代々木駅から地下鉄に乗り換え、六本木経由で遠回りをして、ここまで帰ってきましたとさ。