0819

 青空がひろがっている。
 昨日の帰り道で見た、先週、車のタイヤに圧された鳩の死体はアスファルトの上から消え去ろうとしていた。陽の光によって干乾び、粉になり風に乗って、四方へと拡散していくようだ。これが風葬というものなんだろうと思う。
 電気代を節約するために扇風機を買って使っている。
 部屋の中を風がまわる。読んでいる本のページを、何かの拍子に窓から吹き込む風と扇風機の作り出す風が一緒になっていたずらに捲る。
 扇風機の前で煙草を吸うと、その減りが早い。あたりまえのことなのだが。本数が増えそうだ。というより、もうすでに増えている。だいたい一・五倍増しくらいだろうか。いつもよりも肺が重いように感じるが、構わない。身動きがとれなくなるくらい、もっと重くなればいい。煙が肺の中で黒くどろりとしたタールに変化していく様を想像する。そこには、黒く重い肺を抱えてどこへも行けなくなる自分がいる。
 存在の軽い僕はそれくらいでちょうどよいのだと思う。
 一昨日の帰り道、山手線の車窓に浮かんでいた月は満月にあとわずかに足らないくらいの月だった。その姿は三日月と呼ばれる月よりも、なぜか、よりいびつさを増したもののように見えた。大きく欠けている月よりもいびつに見える満月寸前の月が持つほんのわずかの欠落は、その不安定さを、そして月という存在が持つ切なさを増していたように思えた。
 僕のアンテナの受信可能な範囲が狭まっていることを感じる。最近、感じることができたのはこれくらいのこと。しかも、眼差しや思考は対象の表面を上滑りしている。いや、しまくっている。
 救いがないことを知ることだけが救いなのかもしれない。唐突に、何か、そう思った。はじめからそんなものはなかったのだ。
 知るのが遅すぎたような気がする。