そうしてなんとかラップトップを起動し、いまこの駄文を書いている。
写真をアップしたかったのだが、生憎、写真のデータはその問題と化しているHDDにストックしてあるので、写真のデータが取り出せない。このまま、いままでの写真データは僕の手の届かないところへ行ってしまうのだろうか。
でも、なんとかしてみよう。トライしよう。大丈夫。きっと。
しかしまぁ、こんな感じの時間の過ごし方というのは、生まれついて私立文系の性質の僕にはちょうど似合うのではないか、と独り言ちてみる。
(つづく)
(承前)
大事な用事で御茶ノ水まで出張った。そして、いま帰宅。それにしても暑かった。
帰り道の途中で写真屋に寄る。祖父、祖母そして親父の遺影をL判にダウンサイジングしてプリントするといくらになるのか聞きに行った。店主は丁寧に、笑顔で応対してくれた。完成までの時間も料金も非常に良心的だった。
その一方で、もし僕がまだ学生時分だったら大学の施設を借りて自分でしたものをアウトソーシングすることに、己の来た道の時間的長さを思い知る。
これだけ生まれた町を離れ、その町におけるベースだった実家もすでになく、法事や墓参りをするときだけ戻る、いや「戻る」とは言えない。その町に「行く」のに、その町に一軒だけある旅館に泊まらなければいけないのも、自分は生まれた町と縁遠くなってしまったな、と遠い目をして過ぎていった日々の価値を量ってみる。しかし、その問いの答えはでない。なぜなら、「時間」は自分にとり一定の基準がなく、伸びもすれば短くもなり、最終的に自己の意識の中に恣意的に決定された「時間」となって沈殿していくからだ。
さて、久方ぶりに訪れた御茶ノ水で依頼された仕事に手を付けなければ。まずは、僕と相対するものを俯瞰してみなければ。
(つづく)
(承前)