the mutter of a drunkard

 最後の補講を終えて、今年度の通常授業は一件落着。疲れた、というよりも、疲れ切った。これほどエネルギーを出し尽くした一年も珍しい。身から出た錆である。

 帰り道の電車の中、ふと思い浮かんだことがらを手帳に書き留めた。
 「コトバは四散した世界の断片を繋ぎあわせる糸である。シャシンはその断片を切り取り映すだけである。〈繋ぐ/切る〉という相反した作業なのに、なぜシャシンは表現になるのか。」
 東大で以前出題された多木浩二の文章を講義で扱ったからかもしれない。多木はいつも僕の中のどこかをつついてくる。

 少し休んで頭の中に余裕ができたら、少しずつ、またこういうことを考えてみよう。学生時代のように。

 今、頭は岩のように固まっている。思考が前に進まない。鬱病の関係で薬も多種服用せざるを得ない状態だし、上限で服用しているものもある。それで、やっと、真人間「らしく」していられる。ふりをしていられる。

 とにかく、疲れた。溜まった段ボールを回収してもらうため道路脇の集積所へ持って行く。途中、ドアの角に左手の薬指をぶつけた。充血していた爪と皮膚の間からの出血が止まらない。絆創膏の白いガーゼがみるみる赤黒く染まっていく。

 こんなとき、いつの時代も、酒と薬は人を救うものなのである。

 さぁ、仕事の続きをしよう。Sの冬期講習がすぐにやってくる。それまでに小論文の添削を終えなければ。明日は大きな本棚も届く。少しずつ本も整理しなければ。

 生活は待ってはくれない。