a tele-vision

講習の一発目、五日間が終了した。

帰り道、外でご飯が食べたくて、場末の中華料理屋に入った。
炒飯とビールの中壜を注文する。
まずは、ビール。苦い。大嫌いなアサヒのドライだったが、この際どうでもいい。
酒を呑めることがの方が嬉しい。
出てきた炒飯が妙に甘い。

うらぶれた中華料理屋には必ずある油で滲んだブラウン管テレヴィの画面は、「オーストラリアvs日本」を映し出している。
場末の店では、液晶じゃ駄目なんだ。雰囲気がでない。
ベガルタ仙台佐藤寿人が点を入れて勝つ、という筋書きで日本が勝利するという以外は、当然オーストラリアを応援する。
多くの人が、Jリーグをサポートしない人が、日本代表だけを応援する態度にいつも違和感を感じる。
戦時中のメンタリティと同じなのではないか、といつも感じる。
だから、ワールド・カップの盛り上がりが僕は大嫌いだ。
気持ち悪い。

オーストラリアが好機を逃すと、嘆声を出す。
日本がチャンスを逃すと拍手する。
佐藤寿人が千載一遇のシュートをふかすと、思わず嘆声が出る。
Belle and Sebastian の曲が、Buzzcocks の Pete Shelly の歌声が、頭の中に響き渡る。
周囲を敵に回す。
いいのさ。あなたたちはそうして、日本を応援して、そして搾取されればいい。
僕はただ、実家のある地方のチームにいた人間が国を代表して活躍するだけで嬉しい。
そう思いながら搾取された方がマシだ。
ただ、それだけ。
僕の故郷は「日本」ではない。
宮城だ。

日本が勝った。
観戦料は炒飯、ビール二本、焼豚、水餃子。

近しい人から言葉を頂く。
ただただ、涙。
流れなくなっていた涙が、少しだけ、ほんの少しだけ、こぼれる。
本当に、ありがたい。
心臓を動かす燃料を補給した様な気がする。
薬も少しずつだが、効いてきたようだ。

講習のアンケートはネガティヴなコメントが多かった。
読解を中心にやったのが間違いだった。
彼等は「一問一答」的な現代文の答えの出し方だけを知りたいだけなのだ。
そんな「現代文解法」を本番の入試会場で実行するためには、
読解力、という日本語で書かれた文章を読むことができる基礎的な力が必要だと僕は思っている。
特に、この夏という時期までには最低限、養成しておきたいと考えている。
そうすれば、秋以降、「入試現代文解法」なんて苦でも何でもない。
でも、その一方で、時代が産み落とした子どもたちはそうは考えない。
現実は、彼女/彼らの親御さんから僕はお金を頂いているのだから、僕は生かしてもらっているのだから、
僕の我儘で講義を構成してはいけない。
だから、反省。
講義内容を考え直さなければならない。

でも、というよりも、そもそも僕の能力が足らない。
学歴が証明しているように、頭が悪い。
それなのに、こんな仕事をしている。
大学院に落ちる程度の能力の人間が、この仕事をやってはいけないのかもしれない。
したいからこの仕事をしている、という自己優先のモティヴェイションでは済まない。
他者の人生が左右されるのだから。
特に、同じ科目の他講師に対するアンケート内容を盗み見て、そのコメント内容の差に愕然とする。
やっぱり、僕は能無しだ。脳みそ自体、無いんじゃないか。
差別的な表現を許してほしい。
「能無しでもできることはある」と思って、いや、無理矢理言い聞かせて仕事をしてきたけど、
やはり、思ったとおり、そう自己評価せざるを得ない。
問答無用だ。

そうでなくても、そう、最近、思う。

潮時かな。
向いていないかもしれない。
そんなことを思った。

いてはいけない場所は、確実にこの世界に存在する。

でも、できることは、他に無い。
しがみつくか、消えるか。

答えは、決まっているよね。
あなたは分かっているはず。
でも、僕は決められない。
優柔不断だから。

生徒さんへ。
アンケート、講義でもお伝えしている通り、僕に対してはホントのこと、書いてください。
あなたがいるから僕は生活できるのです。だから、あなたは僕を首にして良いんです。
それでこの世界がよくなれば、何の問題もありません。
あなたが、幸せであれば、それで何の問題もありません。

それが、平和の定義。