in the morning, i'd become not able to bear it. so i hit the brakes for my mind.

 眠れそうにもない。

 数少ない楽しみのひとつ、最近はなかなかできない「夜コーヒー」。休日前の気安さからか淹れて楽しんだ。相変わらず豆はフレンチモカエスプレッソ挽き、そしてペーパードリッピン。邪道。だけど、たとえたかがコーヒー1杯でも、飲む時の気分や淹れ方ひとつで重みが違う。自分にとっては。

 素敵な人だな、とコーヒーを飲みながら思う。だった、と過去形にはしない。これからもその人とたくさん話をしたいから。いい話がたくさんできるから。
 才能ある人。僕は、人を見る目だけは確かだから、それが痛いほどわかる。別にこういった状況のときにありがちな相手を「美化」しているということではない。それは若いころさんざんしたので、そういう心の動きについてはわかっている。だから「美化」ではない。
 その人のもつ力に羨ましくもあり、縋りつきたくもあり、嫉妬していたのかもしれない。そしてその人がもつ僕の与り知らぬところにある、誰かとの関係に対しても。
 今までに出逢った人の中でも、抜きんでて頭のいい人。頭が良すぎて苦しそうなときがあるけど、その人の場合は、それはそれでしかたがない。それが才能を抱え込んでしまった人の宿命。自分のもつ時間にある因果がただの人よりもはっきり見えてしまうのだから。
 本人にとっては耐え難い苦しみだろうと思う。
 でも、だから、その人は美しい。
 そしてその人にあった必然としての「偶然」に、僕の「偶然」が含まれていなかったというだけ。
 その人にとってこのことはただの偶然。代替不可能な「偶然」は別の場所にある。でも、僕にとってはこれがまるで運命論的な「偶然」。避けられずに、ここにある。
 心が勝手に動いた言い訳。

 その人の持っているもの比べ、なんて自分の持っているものは小さいのだろう。小さいどころかミクロ、いやマイナス。いまある時間の内容物しか見えない。それすらも見えないときがある。今が折り重なってできた過去は今に繋がり影響を与えているはずなのに、確かな手触りさえない。将来は過去と今が折り重なった結果としてやってくるはずなのに、それさえ見えない。確かじゃない。

 憧れてしまったのかもしれない。人に憧れることはとうの昔にやめたはずなのに。

 別に「そんなことないよ」「大丈夫」などという安っぽい慰めが欲しくてこんなことを書いているのではない。賢明なる、そしてこれを読んでくださる「ものずき」の方々にはわかると思う。そう願いたい。

 僕にも自身をひしゃげてしまうようなことが日常的に起き、心がどうかなりそうだったから、その人に頼ろうとしていた。そんな素敵な人だから余計に頼ろうとしていた。これ以上自分で自分の存在を否定したくなかったという思いもあった。
 しかし僕は本当に親しい相手にしか、自分自身の存在にかかわることについては頼れないと思ってしまう性質だ。つまり、好きな人にしか寄りかかることなんてできない。友だちという程度では頼ることなんてできない。それはただの迷惑だと思ってしまう。
 その人は、頼ってくれていいと僕に言う。だけど僕にはそれができそうにもない。なぜなら頼り方を知らない。頼るだけってどうやってできるんだろう、と考えてしまう。その行為はその人にとって重すぎるものになるだろうし、またそれはいつかその人にとって迷惑なものに転化してしまうだけのことだ。そしてそのとき「勘違い」してしまう僕がいることだろう。
 僕には何かを受けとめてくれる人を好きになってしまう回路が組み込まれている。
 裏腹に他者から頼られることは受けとめられる。支えになれればと素直に思える。しかし、自分自身のことになるととかく誰かに頼れなくなってしまう。
 因果なものだ。

 こんなの読んだらその人、引いちゃうんだろうな。でも仕方がない。これが僕のできる最大の、小さな居直り。
 でも、わかっている人はこんなことしない。書かない。僕はわかっていないから。その先が見えないから。書ける。曝す。負けを認めたようなものだ。

 なにやってんだか。いい歳こいて。今という時間的な空間だけしか認識できていない。いや、それさえもできていないような気がする。いい加減に生きてきた証拠だ。今、そのツケを払い始めたのだろう。いい気味だ。自分。
 かと言って、最低条件の居直りすらできない。凡人以下の性能。その典型的なあり方を、この身は完全に体現してくれている。
 笑えばいいのだ、自分自身を。笑い飛ばせば未来は見える。
 でも、それすらもできない。
 ただ、気付いたら、いつもひとりになると眼に涙を溜めている自分がいる。
 自分が自分自身に恥ずかしい。こんなことになっているなんて。

 そして、未だに、こんなふうに「自分」のことしか物語れないなんて、最低だ。
 ナイーヴすぎる。そしてナルシシズムを満足させているだけ。相手を通して自分を美化している。そんなのわかってる。でも、今はそうしてしか自分のかたちを崩さずにいることはできない。最低のやり方だけど。
 「自ら処決して形骸を断ずる」と言った江藤淳のように行動できれば何の問題もないのだが、そもそも形骸化するにはその前段階としての確固としたカタチのようなものがあるはずだ。自分には何を成したことも醸成した考えも能力もないのだから断ずるべき対象にさえなれない。情けない。あははは・・・。江藤さん、引き合いに出してしまってごめんなさい。まったく悩みの程度が違いますよね。僕の脳の容積は虫の脳みそ以下の容量しかないから。
 ちょうど14年前。自分で自分の先行きを裏切ったときからこうなるとわかっていたような気がする。あの時のこと、江藤淳、あの人、そして、その人。やはりすべては共通する小さなひとつの要素によって繋がるではないか。こんな偶然はいらなかったのに、結局、呼び込んでしまった。
 人が聞いたら「なんだそれしきのこと」。笑い話。そのことは人間の存在自体を決定するものではないから。でも僕にとってそのことは、やはり、乗り越えられないものなのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
 朝、起き出してみたらオーディオもコンピュータも電源を入れっ放しだった。部屋の電気も点けっ放しだった。そして音楽も鳴り続けていた。ただ、窓から飛び込む白く明るい朝の光が点けっ放しの部屋の電気の光と混じりあい、別の光となって様々なものたちで混沌としているこの部屋を満たし、僕と、オーディオ、コンピュータを包み込んでいるように見えた。光同士の偶然の出会い。自然と文明。相容れないもの同士の出会い。音楽はそれらを繋いでいく。

 時間ができたら埃まみれの部屋を掃除しよう。いつになるかはわからないけど。
 部屋の模様替えをしよう。いろいろなものたちが溢れすぎて整理がつかなくなってきた。ただでさえ整理が下手なのに。数学ができない原因はここにあるのかもしれない。だから、無理してでも秩序づけよう。
 そして可能ならば引越しよう。もうこんな部屋でさえ維持するお金も気力も体力もない。でも先だつものさえないからなぁ。気付いたらなにもない。足りないものばかり。笑ってしまうくらい身動きが取れない。いつの間にか、気付いたら、心も懐も搾取の体系へ取り込まれてしまった。
 自分で蒔いた種が芽をだしただけ。
 それらが果たされる確率の低さを思いながら、新しいコーヒーを入れる。今日も2杯分ずつ。それはこれから「今」になる休日という名の「未来」の時間を積分した量。僕だけのための。
 そして大安売りで仕入れたパスタを茹で上げるための湯を用意する。何かを食べないと休日特有の頭痛のための薬がのめない。以前は空腹でも平気で飲んでいたが、それもやめた。そんな季節はとうに過ぎた。

 意味なんかない。どこからか勘違いしていただけだよ。僕の眼には見通せないくらい昔にね。
 頭痛がひどくなってきた。