talkin’ about memories of fishmans 002

 最近、またフィッシュマンズばかり聴いている。
 最初に彼らを聴いて、そして観てから数えて今年で13年になる。
 いまでも、気分がフィッシュマンズ・モードに入ることが多い。
 まったく成長しない自分がいるような気がする反面、そんな自分にほっとする僕もそこにはいる。

 フィッシュマンズを聴くきっかけは、たまたま入学した大学で、なんの気なしに所属した軽音楽サークルの出身者に彼らがいたということだった。たしかに、まだ田舎にいるときに読んでいた音楽雑誌(ロッキング・オンとか「当時の」宝島とか)で、こんなバンドがいるんだ、ということは知っていたけれど。
 高校生くらいまで日本の音楽を積極的に聴くような人間ではなかった僕は、UKものの音楽、ニューウェーヴやオリジナル・パンク、そこから派生してスカやレゲエ、浪人しながらもバイトしていた古着屋でよく掛かっていたブルーズやセカンド・ラインなんかを聴いていた。若年時代特有の青臭いスノビズムな性格もあった。
 大学でできた友達と、横浜を案内してもらいがてら立ち寄った関内のディスク・ユニオンで『Chappie, Don’t Cry』を見つけ、どんな音楽をやっているんだろうと思い購入したのが、いままで続いているフィッシュマンズとの関係の始まりだった。
 CDでありながら紙製の見開きのジャケット。力の抜けた、いなたい雰囲気のデザイン。生活の中の光景とそこでは気づけないような表面に顔を見せない想いを掬い取っていくかのような言葉。ちょっとずれた方向からやってきて突き刺さってくる言葉。お約束の「熱い」言葉もメロディもない。だけど、胸を焦がす音楽がそのCDには詰まっていた。
 日本にもこういう雰囲気をもったバンドっているんだなぁ、と思った。聴いてみてその思いは増幅された。それまでは、日本のバンドがやる音楽には意味ありげで意味のまったくない「頑張れ」とか「大丈夫」みたいな歌詞や、つまらない高揚感を呼びおこそうと必死なメロディしかないと、ステレオタイプに思っていた。ただ、そのあと様々な日本のバンドの音を聴いて、その考えは単なる偏見の食わず嫌いだったのがわかったけれど。単なる平凡な田舎者だっただけなのだけれど。
 以前にもこのブログに書いたけれど、ライヴは横浜のClub24で観たのが最初だった。対バンはウルフルズだった。それからは東京近辺であったライヴはほとんど行ったような気がする。時の流れを感じる。
 それから、ずっと、フィッシュマンズの音楽は僕の生活の傍らにそっと寄り添ってくれている。いろいろと興味を引かれて手を出していたけれど、結局はなんにもなかったことに最後気づいてしまった大学時代。何度かの出会いと別れ。溶け出していく自分の輪郭を確かめようとする時。雨の日。風の強い日。晴れた日。暑い日や寒い日。穏やかな時。誰かを、何かを裏切った日。そして、裏切られた日。なぜかはわからないけれど、そんな局面局面でフィッシュマンズの曲がそっと鳴っていたような気がする。

 最後のライヴ、『男たちの別れ』ツアー。赤坂BLITZ、98年12月28日。メンバーが徐々に減っていき、これからどうなるのかなという小さな不安と興味をもって観に行った。”is this a memory?” に書いた女性と一緒に行った最後のライヴでもあった。
 「新曲です」という佐藤伸治のMCを合図に始まった『ゆらめきIN THE AIR』を聴いたとき、どうしようもなく空虚感に囚われたことを思い出す。その音像、リリック、そして、佐藤伸治の佇まいを見てしまったら、僕自身がそうなっていた。ステージ上の彼らは透明になっていたような気がした。もう、このバンドに、佐藤伸治にやることは何も残されていないんじゃないかと、そのとき思った。もう彼らに僕らへ見せるような地平なんてないんじゃないか、とも。
 そんな思いが僕の心の隅に立ち竦みながら、ライヴが進んでいく。そして、透明なまま、『Long Season』が鳴りやんだ。
 ライヴが終ったあと、帰りの地下鉄の中で一緒に行った当時の同居人へ、そのとき感じたことを話した。彼女が相槌を打ってくれたときのその顔を、今でも憶えている。
 「幸せだよね。こんな大観衆の前で歌を歌えるなんてね…。いよいよ今年最後のライヴになりました。そして来年も再来年もライヴはやると思います。楽しみにしていてください」という、消え入りそうなか細い声でその夜に放たれた佐藤伸治の言葉は、彼の死によって果たされることはなかった。
 予感が当たったとは思わない。たまたまそうなっただけの話だ。

 今年は再結成をして、ライヴを何本か行っているみたいだ。その内容がどうだったのか、そして、どうなるのかはわからない。11月にやるAX でのライヴにも行けなさそうだ。
 日々の生活の糧を得ることを蔑ろにするわけにはいかない。「そこまで好きじゃないんだ」と責められても、「はいそうです」と僕はその人に答えるだろう。時を重ねてこの歳になってしまえば、偽善の着ぐるみをかぶることなんてわけない。だけど、フィッシュマンズはいまだ僕の生活の中で鳴り響き続けている。
 今日も、今も、傍らで鳴っている。たぶん、明日も。響くたびに、泣く。
 幸せだよね。感謝。