litsen to the music by headphone

 今日の夜更け、いま、大きい音で歌を聴きたい気分になっている。もちろん、この時間にスピーカーから大音量を出すのは、集合住宅に住んでいる者にとっては隣近所の住人とのコミュニケーションの破綻を意味する。だからヘッドフォンのプラグを机上にある小さなソニー製のアンプに差し込んで、老眼鏡をしてからおもむろに両耳を覆うようにヘッドフォンを装着する。

 大きい音で歌を聴きたい、というのは身体の状態に起因する衝動であって、誰の歌を、どのバンドの歌を、はたまたジャズを、といった具合で特定された歌を聴きたいわけではない。要は、何でもよいのである。日本語の歌だろうが、英語の歌だろうが、仏語の歌だろうが、何語で歌われていてもいいし、ことさら内にある感情のひだを刺激してくれなくともいいのである。

 ひと月前、何個か所有していたヘッドフォンを売却した。金に困っていたこともあるが、整理したかった、というモティヴェーションが理由として正しい。色々に変化する意識のありように対応できるように、また様々な音楽のジャンルに対応できるように、シチュエーション別に揃えていた複数のヘッドフォンを整理してしまいたかった。

 今は、唯一手元に残したヘッドフォン、BeyerdynamicsのDT770/80ohmで日本語の歌を聴いている。このヘッドフォンの良さはググれば他の誰かの意見を参照できるので、ここではガジェット批評を展開するつもりはない。

 歌は、気分に沿うように、日本語の歌を歌っている人々をすべて指定して、Foober2000をシャッフル・モードで稼働させ、コンピューターが選んでくれる歌を次から次へと聴いている。

 発明されてからこのかた、その時々の世界のあり方に合わせて改良し、面倒くさい体系を持つようになった日本語で歌を創るのはさぞかし大変であり、多大な労力を必要とするだろう。僕もその世界にちょっとばかり足を突っ込んでみた経験があるが、僕の音楽の能力ではどうすることもできなかった。だから、今ヘッドフォンで鳴っている音楽を創作してきた人々の才能に対して、生来素直じゃない僕が素直に首を垂れるのである。そして同時に、いくばくかの嫉妬心をやり過ごすのである。

 まだ、大人の聴き方はできないみたいだ。