外付けのハードディスクにアクセスできなくなった。昨日まであった地方での仕事へ向う前の出来事だ。
現在使っているパソコンにはUSBコネクタが2つしかついていない。しかもIBMのT4X系特有のUSB2.0を認識しない状態である。大量のデータをやり取りすることが多いので、1.1では時間がかかりすぎて仕方がないのである。そこで増設しようと以前買っておいたカード型のUSBコネクタを取り付けようとした。そのドライバをインストールしたら、全体の調子が悪くなった。まず、メールの受信ができなくなり、それを手始めに、メモリを増設してから早くスムースに動くようになっていた全体のシステムがギクシャクし始めた。
4月以降の自分みたいだ。そんなことを思いつつ、いらいらした気分を変えるために、音楽を聴こうと外付けのハードディスクにアクセスしようとした。エラーメッセージがでた。「ディレクトリが壊れています」、と。僕は素人なので何がなんだか分からない。ウェブ上で検索しまくったが、何がなんだか理解不能。仕方なく、諦めることにした。
数千曲あった音楽のデータは、もうない。まだ再取り込みすればなんとかなるが、なんとかならないものも多数含まれている。それらはおそらく一生耳に響くことはないだろう。
これまでの写真のデータは、もうない。すべて二度と見ることはできない。デジタル化したことが凶とでた。その他、保存しておいた様々なメッセージも、もうない。過去の記録はすべて無になった。予期できたことである。リスクを天秤にかけて行動した結果、こうなっただけである。
君にも届かない。
これはきっと、良いことなのである。これで、良かったのである。過去は何の役にもたたない。記録なぞ後生大事に持っていても一文の得にもならない。特に僕の場合、何も生み出さないだろう。そう、これで良いのだ。などとバカボンのパパ風に考えてみる。
それでも、なにか後ろ髪が引かれる思いが残る。今はもうないその音楽や写真の情景が、メッセージから受けた情感が、意識の中に浮かんでは消えていく。意識の中の壊れかけたハードディスクにかろうじて記録されているデータが、命令を出していないのに、時々読み出されては再生される。そして、二度同じ再生内容になることもない。読み出される度に、意識の中のデータは形を変える。
そのたびに僕は困ってしまう。揺れ動く記憶のイメージに対してどうして良いのか分からなくなる。その中にどっぷりと浸かり楽しみながら生きていくには、まだ若い。反対に、すべての記憶を捨てて新しいデータを入れるには、歳をとりすぎている。もちろん意識の表面に立ち戻らないものもある。しかし、それをも含めて、何か大きな空白ができたような気がする。
しかし一方では、普段はアクセスしたくない記憶も時折愛しく感じてしまいイメージしたくなる衝動に駆られてしまうことがある。また、そんなことが許されるときとそうでないときがある。そんなときは思い出して浸るに限る。そうしなければ、後々尾を引いて、しばらくの間引き摺ることになるからだ。さっと思い出して、その中に浸りながら酩酊し、次の瞬間を迎える態勢を整えるのが良い。だが、そうそう上手くは行かない。その上手く行かなさが、また記憶を増強してしまうことにつながることも多い。
具体的なものを電子の粒に置き換えることで、合理的な生活を送ることができる。それを選んだのは他ならぬ僕自身である。しかし、テキストの校正をするときはパソコンの画面上で行うよりも、印刷された紙の上で作業を行う方が圧倒的に能率が良い。単なる慣れの問題だろうが、物質の持つ実感的なメリットもその理由の一つにはあるのだ、と僕は思う。
ハードディスクからデータを引き出して「歴史」を作ることは不可能になった。しかし、過去を頭のハードディスクから引っ張り出して、〈記憶〉を味わうことは可能である。どちらが良い、どちらが楽しい、どちらが重要とは判断できない。ただ、その状況を受け容れていけなければならない。それが判断への責任である。
さて、どうしたものか。まずは再フォーマットをしてハードディスクを空っぽにしよう。まだ円盤上に残っているはずの「歴史の素」たちを空っぽにしてしまおう。
さよなら。電子の粒の過去たち。