everything flows, more slowly.

 部屋の台所の換気扇が壊れた。うんともすんとも言わなくなってしまった。
 もうこの部屋に住んで6年目だから、前の住人から僕へたすきが渡る前にいくらか手を入れてあるとはいえあちこちに襤褸がきてもおかしくはない。もともと建物が完成してからある時の単位を20以上重ねているのでそれはそれで致し方ないことなのかもしれない。

 前にも少し書いたが、僕の部屋には襤褸が多い。ものはひとにつくというが、この世界をまわりまわって僕のいる此処に辿りつかざるをえなかったものたちなのだろう。ものたちには失礼かもしれないがなんとなくそう思う。
 そして自由に、気ままに、襤褸のものたちは自分の居場所を確保している。あるものは我がもの顔に、あるものは慎ましやかに、またあるものは突然思い出したかのようにときどき顔をみせながらそれぞれの場所にいる。たとえば音楽を聴くためのアンプはむずがりがちでときどき突然音を切って反抗したり、ざらざらと異音をその音楽の中に混入してみせる。読みもしない本が常に机の上を占領し、また本を少し読んではどこかにおいてしまうので常に居場所の定まらない本たちもいる。消火器はいつも玄関脇に二時代前の告白した直後の少年のような赤い顔をしてたたずんでいるが、年に数回しか僕の意識に上ってくることはない。
 そんな感じで、僕の部屋はいつでも収集がつかない。つねに乱雑きわまりない状態にある。その原因はものたちだけではなく、多分にずぼらな性格でかたちづくられている僕の責任でもあるのだが。

 なんでもそうなのかもしれない。
 僕が彼女/彼らを呼んでいる。いまあなたの傍らにたたずんでいる彼女/彼らをあなたが呼んでいる。そしてそれを秩序立てようとする人間もいればそうでない人間もいる。
 意識的、無意識的などという科学では解き明かせない人間の永遠の課題を少しでも垣間見ようとしている言葉ではなかなかうまくはいい表せない、心のなかのどこかの動きでものたちを呼んでいるのではないかと思う。それは科学的には脳の動きに理由を求めることなのかもしれないけれど、胸がざわざわすることと同じで科学的理由では説明したくない、言葉では表せない胸の中の「なにか」の作用によるものだと信じていたい部分が僕のなかのどこかに巣食っている感覚がある。僕にはその「なにか」でものたちを引き寄せているのだと信じていたいというどこか子どもじみた考えがある。そして反対にそのものたちが僕を呼んでいるのかもしれないとも思う。同じようなものたちの心の作用によって。

 こうして僕もものたちもこの世界のなかにたたずんでいる。そう思いたい。壊れてしまった部屋の台所の換気扇もそこに交代選手がくるまでたたずんでいることだろう。試合中に致命的な怪我を負った瞬間、自らの選手生命の終りを悟りピッチ上で自分よりも若い交代選手を待つフットボール選手のように。
 「ものたち」を「人間たち」に置き換えてみてもいい。交差する、視線があう、話をする、肌を通わせる、耳をかたむける、胸の中の「なにか」はさまざまな身体的行為を通じて誰かを呼び、そしてその存在を確かめる。いくら否定しようとも、扉を閉じようとしても胸のなかのどこかの動きが常にそれを求めている。
 そうして自分の周囲には人間たちとものたちが呼ばれ幾重にも折り重なっていく。自分も誰かやなにものかに呼ばれその周囲に折り重なっていく。それらを整理できるひと、混沌としたまま放っておくひと、その受けとめ方はひとそれぞれなのだろう。

 しかし折り重なったままで時がすぎていくわけではない。
 構成しているピースが欠けてしまうことは常に、どこでも、それを欲していなくとも起こる。
 あっという間に視界からも記憶からもなくなってしまうひとやものもあれば、気付かぬほどゆっくりと、しかし確実にこぼれ落ちていくひとやものもある。
 いま窓から射しこんでいる晴れた日の陽の光が鈍くなっていけばいくほど、その存在の空白がますます大きく暗く感じられ、せつなくなっていく。ここにあるものたちがそれに見て見ぬふりをしている。

 髪切りの予約は夕方の5時である。

…うわ、くさっ。

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「髪を切るときの気分」な一曲:"She Don't Care About Time" by The Byrds

… なんとなくこんな感じです。
  Pavement "Cut Your Hair"もいいのだけれど。

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