the reason to take a human being.

 「ひとつ、注文していいですか? ひとが写ってるところみたいんですがね。勝手ですかね?」

 2月15日にヴォーゲルさんよりコメントを頂いてから、僕の耳の奥で「ガツンドカン」と鈍く重い音が絶えず響くようになった。それは言葉にすると「人間を撮らなくていいの?」というあまりにも重い問いであり、「人間を撮る」という僕にとってはとてつもなく難解な命題だった。いやいや僕は街中の事象をスクラップしているのだから、という言い訳にも似た理由付けを提示すればそれで済んだはずだった。
 しかし、そうはいかなかった。

 「私もね、人はなかなか撮れませんでしたし、今も撮れません。 居直りでしょうね、いわゆる優しい人にはなかなか他人のうちまでずけずけと入れませんからねえ。 殴られるのを覚悟で、それでも撮りたいと思うようなものが出てきたらいいのですがねえ。」

 長々と引用してしまったが、要するに見透かされていた。それまでに掲載した写真の真ん中を。
 写真は言葉ための資料、と僕はこのBlogを始めるときに言った。いい気になって。カッコつけて。格好悪すぎる。バカが余計にばれた。良くぞこれだけの無知さ加減でこのBlogを作っていたものだ。我ながら呆れる。
 言葉は人間同士の関係を構築するための道具だ。その本質を理解している振りをしているだけだった。「人間」を知ろうとしなければ、言葉などという道具はイイタイコトの表面を上滑りするだけになってしまう。おいおい早く気づけよ、と投げかけられた言葉は僕の背中を押してくれた。
 「人間」を撮らなければその性質からいって言葉の資料にはなりえない。「人間」を資料にしなければ他人の心のうちにずけずけと入り込むような言葉なんか紡げるわけがない。言葉ものだけではなく、映画然り、美術然り、客商売然り。音楽だってそうだ。要するに人間の心を揺さぶるようなことをしなければ成り立たないものは全て「人間」を考えてはじめてその領域に達する。
 人間の存在はあまりにもやっかいだ。ひとつひとつ理解していこうとしても棺桶に入るまでにそのすべてを把握しきることは不可能だから。クエスチョンマークを頭の中で引きずりつづけ、それでも知ろうともがけばもがくほど悩み傷つき、時には笑うしかなくなることだってある。あまりにもわからないから誰かの、あるいは自らが作り出す物語に理解することを仮託してその永遠の疑問をやり過ごそうとする。
 僕もそうだ。でも、まだ何も解決していない。何も始まっても終わってもいない。はじめから動き出してさえいないのかもしれないが、考え抜かなくてはならない。
 自分の撮った資料で考え抜かなくてはならない。

 全く勝手ではありません。鑑賞者はリクエストしなければただの観る人ですから。対象に対し自分の言葉を用いて意見を想いをかたちにするのは僕をも含めた鑑賞者のもつ当然の権利です。そんなたいした写真は一枚もありません。そしてたいそうなBlogでもありません。でもみなさん、意見や想いがあればどんどんおっしゃってください。(28/02/05追記)

 皆様、いましばらくお付き合い下さい。僕は弱く何もない人間なので、皆様の眼と言葉が必要なのです。

 って理由付けばかりしている自分。ダメダメ。なので突っ込んで下さい。