30.12.18 - 11.01.19


 なんだのかんだのと喚き散らしている間に、吾知れず年が明けていた。いよいよ「平成」にピリオドが打たれ、公的な歴史として書かれる時代を構成する一部になるのかと思うと、なにやら少しだけ鼻の奥がツンとするような感慨が湧いてくる。

 昭和・平成・新元号と三つの元号の時間区分のもと生きてきたのだとも思う。子どもだった頃、僕は明治・大正・昭和という三元号を生きてきた祖父の存在にさほどのリアリティをもつことはなかった。それに引き換え、いざ自分が三元号の時間区分のもとに生きていることが現実となりそうだと意識せざるを得なくなったいま、その祖父の存在に関する思い出がやけに実存的な感覚として生起してくる。時を生きるという事実は、表面上ノンフィクショナルな時のあり方として捉えられる。だが、それをリアルなものとして、またフィクショナルなものとして認識するには、自分自身が時間軸上で祖父の生と自分の生を同時に引き受けることが必要なのだなと思ってみたりもする。

 ここのところ行けていない、ではなくそれが意識に上るのを恣意的に妨げている先祖の墓参りをしなければならない、という意識が惹起する。

 昨年末、某オークションでジャンク品扱いだったせいなのか常識外れの値段で手に入れてしまったラップトップが、先週申し込んだメーカーの修理から手元に戻ってきた。前所有者が加入していた保証がまだ使えたおかげで、修理費用は発生しなかった。第六世代プロセッサー。それは僕にとっては最新型と同じに等しい。世界はどこで何がどうなっているのか分からぬ偶然に満ちていると頭の中で、まさかの幸運とともに、独り言ちてみる。

 その昔、祖父は古き存在だった。僕もこれから、古き存在として生きていくのだ、という思いを抱かざるを得ない年の瀬と年明けだった。はたして、僕の存在をそう捉えてくれる誰かはどこかにいるのだろうか。