前者は、大学で東京に戻ってくる意識の中の契機となった。後者は、思春期の世界のあらゆるものがない交ぜになった場所として、いまだ僕の心の中の奥の方で大きな部分を占めている。
今回の一連の報道では、蔵王が噴火する可能性が高まっているという。噴火すれば、その山脈の姿のいくばくかが変わることだろう。麓の町にあった実家は、父の死の直前に処分したので、僕にはその町に帰るべき場所はない(デラシネ、というやつだ)。だが、山脈の姿形が変わるようならば、僕は記憶の上書きを迫られることになるのだろうか。
それとも、原風景は何ものにも、誰にも変更不可なのだろうか。