2018.01.31

 僕の記憶の中には、ふたつの原風景がひろがって、基底を成している。
 ひとつは、生まれてから四つの頃まで暮らした、芝大門の神明通りの情景だ。そして、もうひとつは、二十まで暮らした東北のある町から見える蔵王、不忘山の風景だ。
 前者は、大学で東京に戻ってくる意識の中の契機となった。後者は、思春期の世界のあらゆるものがない交ぜになった場所として、いまだ僕の心の中の奥の方で大きな部分を占めている。

 今回の一連の報道では、蔵王が噴火する可能性が高まっているという。噴火すれば、その山脈の姿のいくばくかが変わることだろう。麓の町にあった実家は、父の死の直前に処分したので、僕にはその町に帰るべき場所はない(デラシネ、というやつだ)。だが、山脈の姿形が変わるようならば、僕は記憶の上書きを迫られることになるのだろうか。
 それとも、原風景は何ものにも、誰にも変更不可なのだろうか。

 よしんば蔵王の峰が噴火したとして、その被害が想定される最小の閾値に留まらんことを願うばかりだ。
 蔵王町、七ヶ宿町、白石市、そして大河原町にあるすべての無事を僕は願っている。