2017.08.17

 昨日、一昨日あるオークションサイトで落札したラウドスピーカーが届く。そのスピーカーの筐体は赤く、それが僕の心を少しざわつかせる。仕事の合間に落札「してしまった」スピーカーだが、そのスピーカーのメーカーにはちょっとした過去の出来事の想い出が絡んでいるので、なにか懐かしい思いもした。

 早速、箱から2台取り出し、仕事机の正面奥に、普段使っているラウドスピーカーの脇にそれぞれを無造作に置く。そして7,8年前から使っていなかったスピーカーケーブルをろくにきれいにもせず、まずケーブルの一方を、これも机上の左隅に置いてあるプリメインアンプに繋いであった別のケーブルを外し、繋いだ。

 筐体の下にカーボン製のごく薄いインシュレーターを前2後1の3点支持でかませる。そして、音を出してみる。この赤いスピーカーと同じメーカー製のスピーカーを使っていたことがあるのだが、そのときに聴いていた音像とかけ離れた音が出た。正直、期待外れの音だった。昨日はそのまま鳴らし続け、仕事をした。

 契約先から仕事の受諾可否に関するネガティヴな知らせがメールで伝えられる。「赤」は僕のラッキーカラーだというのに、早速の仕打ち。まぁよくあることだから気にはしないようにした。仕事を続ける。だが、昨々晩からロクに寝ておらず、頭の中も冴えてはいるのだが考えがまとまらず能率が落ちてきたので、眠剤の助けを借りて強制的に寝た。14:00頃。

 そして、今朝。眠剤が効きすぎたのか、3:30起床。ルーティン通り、玉をスモークからクリアに換えたばかりの電灯を点け、パソコンの電源をオンにし、アンプの電源もオンにし、仕事の前段階である音楽を流した。8:15過ぎ、赤いスピーカーのメーカーの製品は音量を上げると良い出音になることを思い出し、両隣の部屋を気にしつつも、アンプのヴォリュームノブを回した。

 案の定、前日とは打って変わって、赤いスピーカーは良い音を出し、音像を形成した。音源はNUBACK(スペル違いではない)。NUBACKが配信する音源データはハイレゾハイレゾ一歩手前のレートなのだが、20年前のスピーカーはそれを朗々と鳴らしている。メーカーのキャラクターを垣間見た気持がした。なるほど、種類は別だが、あの頃と基本的な部分は変わっていないのだな、と頭の中で独り言ちる。親父の7回忌の法要が一段落したら、セッティングをいじってやろうとも思う。

 いま、山下洋輔の『Wind Of The Age』を赤いスピーカーを流している。
(つづく)

(承前)
 昼休憩。

 先だって神戸のコーチ、ネルシーニョが解任されたが、後任にラウドルップ招聘か、というニュースを知る。今はJリーグ全体のことを考慮に入れると、実績よりもネームヴァリューを重視するのかな、と。それを可能にする力がある三木谷氏は凄いと認めざるを得ないが、Jは名より実をとる方向性の方が良いと思う。結果として、その方が世界中のリーグの中でJリーグアイデンティティの確立に寄与するのではないか。

 しかし一方で、ネームヴァリューにはかかわらず、様々なリーグ出身の若手監督が経験を積む最良のステップにJリーグはなっても良いとも考える。そうすれば、Jリーグは各国リーグの中で特別な意味をもつリーグとなるだろう。そのような環境の中で日本人コーチも切磋琢磨すれば、良質な経験値を積める。果たしてそれができる財政的体力を各Jクラブが持ち得るかと言われれば、ほぼ不可能と言わざるを得ないのも事実なのだが。

 だが、ちっともJのクラブに振り向きもせず、サポートしようともしない「日本代表バカ」が目を覚まさないかぎり、無理だろう。サポートするJのクラブがあり、その上で代表チームをサポートする。自分がサポートするクラブに所属する選手の中から日本代表に選出されたら、喜びは何倍にもなるのだと思う。「代表至上主義」な人に会うとゲンナリする自分がいる。それは悪くはないが、発展性に欠ける。Jリーグが機能・発展しなければ、選手を海外クラブに売ることもままならなくなり、それこそ「ガラパゴスフットボール」に拍車がかかるような気がしてならない。
(つづく)

(承前)
 赤いスピーカーの音が、徐々にではあるが、良化しているように聴こえる。これはスピーカーとケーブルの再エージングが進んだのか、それとも僕の耳の音の捉え方にこの音に対する慣れが醸成されてきたのか。

 真相は? オーディオ機器は自然科学の領域の産物だが、なぜかその存在は有機的に捉えられる。絶対的基準はなく、聴く人の数だけ評価基準が存在し、判断が下される。たとえば「小説の在り方」と似ている、と言えば分かりやすいのだろうか。

 これから、父の七回忌を執り行うのにあたり、いまはもうない実家があった町に帰る準備をする。いつのまにやら「里帰り」はただの「帰る」になっていた。変わらないものなんてないんだ、とただただ思うばかり。そう、僕の内の父親に対する認識のように、変わらないものはないのだ。たとえそれがポジティヴな変化であっても、あるいはネガティヴな変化であっても、生と死のあいだは常に揺れ動いている。それを識る人もいれば気付くことなく生と死のあいだを通り過ぎていく人もいる。この歳になってやっと、遅まきながら、そんなふうに生死への認識を変化させつつある。

 いま、赤いスピーカーはフィッシュマンズの詞曲の出口の役割を果たしている。